研究調査報告書
平井 東幸
セルロイド産業の業界団体の盛衰(中)
セルロイド産業史20


 前回(2018年4月5日)に引き続いて、セルロイド業界の発展に貢献した業団体の帰趨について、生地、製品、問屋、検査団体にわけて、概略を紹介します。今回は生地団体と検査団体を取り上げます。

1) 生地製造団体
 生地団体は昭和の初めには任意団体として存在していた。この間の経緯に詳しいのが『硝化綿工業会四十年誌』(硝化綿工業会 平成10年)。同誌によると、昭和21年のセルロイド生地工業会設立は、17年ぶりの業界団体の再開とある。これから逆算すると、昭和4年当時には生地メーカーの団体が恐らく任意団体としてあったことになる。
 この間の事情に関しては、「戦前のセルロイド生地製造はダイセルが政策会社として独占的な立場であり、輸出政策から加工業界の振興と育成に関して組合を結成してきたのが歴史です」との大井氏の指摘を頂いている。
 戦時体制に入っていた昭和16年に企業整備法が制定されたが、この年の生地メーカーは12社、再製生地業者は58社を数えた。軍需省の指示によって加工業者を含めて、日本セルロイド製品工業組合を結成した。その後、戦線の拡大とともに物資欠乏はひどくなり、戦争遂行体制の強化のために昭和16年11月には、生地と再生生地の団体は分離されて、日本セルロイド生地統制鰍ニ日本セルロイド屑統制鰍ェ設立。生産計画、資材割当、配給計画の策定実施等に当った。19年には両社が合併して日本セルロイド統制鰍ニなった。戦時下において業界団体もめまぐるしい変遷を辿らされた。
 戦後、生産・資材の割当、配給等の業務は、GHQ施政下の機関閉鎖令(昭和22年)に抵触するとされて、生地工業会は昭和23年に解散させられ、セルロイド生地倶楽部が設立された。倶楽部という親睦団体的な名称に改称されたのはこのような時代背景がある。この昭和23年には事業者団体法が施行されて、多くの業界団体が設立された。日本化学繊維協会もその一つだった。

    表1 生地メーカーの業界団体の変遷
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  年  月      記      事
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 昭和16年11月  日本セルロイド生地統制叶ン立
             日本セルロイド屑統制叶ン立
     19  1    上記の2社合併して日本セルロイド統制叶ン立
     20  12   上記の会社解散
     21  1    セルロイド生地工業会設立(17年ぶりの再開)
             硝化綿協会設立
     23  5    セルロイド生地工業会解散
         6    セルロイド生地倶楽部設立
     30  1    同上セルロイド生地協会に改称
     32  4    セルロイド硝化綿工業会設立
     49       同会のセルロイド部会、活動停止
     50  4    セルロイド部門が脱会して、硝化綿工業会に改称
  平成14年     硝化綿工業会解散
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  (出所)矢野信雄『セルロイド この30年』(昭和50年、非売品)、
       『硝化綿工業会四十年誌』(硝化綿工業会、平成10年)、和久井昭蔵資料ほか

 創立総会については、同倶楽部の機関誌『セルロイド生地倶楽部会報no.1』*のp.1に要旨次の通り記載されている。
 「セルロイド生地製造業者の親睦を図り、セルロイド生地工業の健全な発達に寄与することを目的に」、23年5月17日、東京都中央区銀座西8の8、新田ビル会議室で創立総会開催、出席者は生地業者18社、ほかに経済安定本部化学二課から事務官等2名。大セルの結城鉄雄氏を議長に推薦、議事進行し、@規約の制定、A本部を東京都、支部を大阪市に置くこと、B役員選任(幹事:大セル、滝川工業、筒中セル、旭化成、大成化工、永峰の6社、会長は結城、会計幹事は永峰等)を決定した。
 その業務は、同会報によると、会員の親睦増進のみならず、生産計画、資材割当、原価計算等を行い、戦後の経済復興、朝鮮動乱の勃発もあって政府の政策の下、業界復興の中心的役割を果たしたのである。
 それ以降は表1の示すように推移した。昭和30年にはセルロイド生地協会に、昭和32年にはセルロイド硝化綿協会になり、そして昭和49年には同会セルロイド部会が活動停止して、生地メーカーの団体は終息した。この間、会員企業は相次いで生地生産を停止したのであった。ちなみに、生地生産についてみると、戦後のピークは昭和29年の8,354d、セルロイド部会が業務を停止した昭和49年は2,131dであった。
  *因みに、月2〜3回発行の同誌は、縦書き・ガリ版刷りで、わら半紙に印刷した質素なもので、当時の物資不足を今に伝えている。当館資料室に保管されている。

2)輸出検査団体
 セルロイド製品の輸出検査が始まったのは大正7年で、その後次のような経緯を辿った。 『セルロイド情報』(1954年9月号)によると、大正7年輸出セルロイド製品取締規則が農商務省省令として公布されて、セルロイド同業組合で検査を実施することになった。大正14年には重要輸出品工業組合法が制定されて、同法に基づき工業組合で検査をおこなうことになり、次いで戦時体制が進むなかで昭和11年には重要輸出品取締法が公布されて、民間検査機関の監督が強化された。
 戦後は貿易再開の際に、暫くは日本セルロイド工業統制組合で実施した。昭和23年には、輸出品取締法が公布され、翌24年にはセルロイド検査協会が設立された。それ以降は昭和33年の輸出検査法の制定等、表4が示す通りだ。すなわち、セルがプラスチックに代替されていく中で、検査団体もプラスチックに発展的解消されたのであった。

    表2 戦後の検査機関の推移
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    年  月         記     事
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  昭和24年6月  財団法人セルロイド検査協会設立
      29年    登録指定検査機関として許可される
      31年2月  財団法人日本輸出プラスチック検査協会に改称
      33年3月  輸出検査法に基づく指定検査機関となる
      39年4月  財団法人日本プラスチック検査協会と改称
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  (出所)表1に同じ
 そもそも、こうした検査機関が設立された経緯は、海外からの品質等にかんするクレームに対処して輸出品の品質保証であった。輸出用加工業者が東西に多数存在したため、粗悪品を輸出してわが国の製品のイメージを汚すことを防止したのである。現在、わが国の製品の品質は世界トップレベルの評価を世界から得ているが、戦後も暫くは「安かろう悪かろう(繊維製品では1jブラウスのように)」が、一般的な評価であった。法律に基づく輸出検査によってわが国の製品はセル製品に限らず、品質が一定に維持されたばかりでなく向上したことを看過してはならないであろう。

 なお、今回も、セルロイド産業文化研究会の大井瑛大阪代表から資料提供を頂き、原稿の点検を頂くなど、ご高配を頂きました。ここに記して感謝致します。
 次回は引き続き、セルロイド産業の業界団体の盛衰(下)を取り上げます。
                                         (2018年5月17日)

著者の平井東幸氏は、東京産業考古学会理事、葛飾区伝統工芸審査委員長で、元嘉悦大学教授、千葉県在住。

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