1.昭和32年:神武景気からなべ底景気に
引き続き『関西セルロイド情報』(関西セルロイド工業協同組合の月刊誌)を利用して昭和31年の業界動向を回顧します。
この年、1957年には、神武景気が一転して、なべ底景気に向かう転換期であった。国連の安保理事会の非常任理事国なって国際社会への復帰を果たし、南極観測隊が昭和基地設営を開始。国内では、初の女性週刊誌『週刊女性』が発刊、世相面では、フランク永井の
「有楽町で逢いましょう」が流行し、家電普及率を見ると、洗濯機が20%、冷蔵庫は数%とまだまだであった。5千円札が発行されたのもこの年であった。
2.セルロイド硝化綿工業会の発足
この年の3月28日、戦後発足したセルロイド生地協会と硝化綿工業会が、「戦後のセル業界の混乱期を乗り切ったが、市況の安定と共に、両団体を統合し、・・・セルロイド硝化綿工業会を発足し業界発展に協力することになった」(『硝化綿工業会四十年誌』)
統合の背景は、業況が頭打ちする中で「3年ほど前から、生地業者は、硝化綿もセル生地も製造し、夫々硝化綿協会及びセルロイド生地協会に加入しているが、之は余計な事ではないか」(『セルロイド情報』1957年4月号)との指摘もあり、一方、硝化綿は減産方向に、セルロイド生地も量産より質の時代に入ったことから、経費節約、合理化の中で両団体の統合が実現したものだ。統合後は、事務局にはセルロイド部と硝化綿部が設置されて従来の業務が継続された。「業界の協調、宣伝啓蒙、調査統計等の事業を行い・・・親睦機関の実は大いに挙がると期待」された(同誌5月号)。また、セルロイド生地新製部会では、その内部組織として、業務、技術、資材、PRの4つの委員会を設置して活動を進めることにしている。
3.減少に転じた生地生産
31年の生地生産は7,780dと前年の8千d台を下回った。内訳をみると、新製生地は減少だが、再製生地は反転増加した。今から振り返ると昭和29、30年が戦後の生産のピークであった(表1参照)。
表1セルロイド生地生産の推移(単位:トン)
年次 |
新製生地 |
再生生地 |
合計 |
昭和24 |
4,119 |
1,236 |
5,355 |
25 |
4,476 |
1,494 |
5,970 |
26 |
5,527 |
1,519 |
7,046 |
27 |
6,341 |
1,469 |
7,810 |
28 |
6,020 |
1,400 |
7,420 |
29 |
6,716 |
1,638 |
8,354 |
30 |
6,704 |
1,499 |
8,203 |
31 |
6,277 |
1,503 |
7,780 |
(出所)『セルロイド情報』1957年6月号
輸出は、外貨不足の著しかったわが国において成長の原動力であったが、セルロイドも正に同様であった。輸出は業況を大きく左右してきたのである。
表2 セルロイドの輸出実績と目標(単位:億円)
年度 |
生地 |
製品 |
合計 |
昭和31年(実績) |
5.77 |
16.16 |
21.93 |
(目標) |
6.45 |
18.20 |
24.65 |
昭和32年(目標) |
7.72 |
22.00 |
29.72 |
(出所)同誌1957年4月号
31年度輸出実績は22億円弱と戦後最高を記録した。もっとも当初目標は下回った。
32年度の輸出会議の目標値は生地、製品とも意欲的であり、合計で30億円弱である。 市場開拓努力と樟脳等の奨励金制度が貢献するとしてその達成の可能性は十分ありと。
他方で国内市場では、プラスチックの進出でセル分野が浸食されつつある。同誌8月号のセル硝工業会の樟脳価格に関する当局への陳情書のなかで、興味ある事情が記述されている。それを一部引用すると次の通り。
「米国における可燃性の問題が起こって以来、セルロイド加工業者自身が自衛のために、セルロイド以外のプラスチックを材料として各種製品の製造する研究を始め、これが一応完成して参り・・・他の材料を使いこなせるとなると、その方が安く(セルの板生地は色物で1`500円であるが、硬質塩化ビニール板生地の色物は430円と安価であり、酢酸繊維素もほとんどセルと同価格)、したがって売りやすいので、当然セルから他のプラスチックへの移行が目立ってきた訳」と、セルロイドは原料価格面でもプラに追われている実態が述べられている。
4.昭和32年のトピックス
業界をめぐるトピックを同誌からいくつか拾ってみよう
1)定期入れは、セル製を
先の大阪鉄道局につづいて、東京鉄道局でも、定期入れはセルロイド製のような無色透明品を使用するように利用者に要望した。当時急増しているビニール製は色物で鉄道業務上障害を受けると共に能率を低下させるので、ポスターを各駅やその他の各所に貼って、その普及徹底を図るとしている。
2)セルロイド生地協会の会報、一時中断
セルと硝化綿工業会の統合で、セル生地協会の会報は3月号をもって、一時中断した。一方、関東セル工組連合会の『東京セルロイド月報』はセル生地協会の会報よりも数年早く発刊されたものだが、この年に業界紙『東京セルロイドプラスチック報知』を機関誌として指定した。いわば、発展的解消である。永らく業界情報の把握に貢献してきたのに惜しいことであると(同誌7月号)。この事例は業況の浮沈、組合企業の経営多角化等の中で 団体機関誌を続けることのむずかしさを示している。なお、セル硝工業会では、『セルロイド旬報』を8月から発刊した。既刊の『硝化綿新報』との両建てになったもの。
3)水道用セルロイド管のJIS規格決定
最近水道用に金属管に代わって硬質塩ビ管やセルロイド管の使用が目立ってきたので、通産省工業技術院では、32年1月からその規格を制定した。これで、金属管よりも安価な硬質塩ビやセルロイドの水道管の適用範囲、製造方法、外観,形状および寸法が明確にされ、その普及が期待されることになった。は、32年1月からその規格を制定した。これで、金属管よりも安価な硬質塩ビやセルロイドの水道管の適用範囲、製造方法、外観,形状および寸法が明確にされ、その普及が期待されることになった。
しかしながら水道管は価格、製造の面から硬質塩ビの水道管が用いられ、セルロイド水道管はほとんど使用されなかった。
5.おわりに
昭和32年は、生地生産の2年続きの減少の中で、セルロイドと硝化綿の両団体が統合しての工業会の発足が象徴的であるように業界にとって大きなターニングポイントであった。
この年には、ポリスチレンの生産が始まり、プラスチックとの競合がますます本格化し た。業界は加工部門を含めて少なくても10万人を雇用していた産業であったが、このころからセルで培った技術、取引経路等を活かして、プラスチック転換をいよいよ進めることになった。
この稿についても、セルロイド産業文化研究会の大井瑛大阪代表のご点検と加筆を頂きました。ここに記して謝意を表します(2018年12月7日)
(出所)『セルロイド情報』1957年6月号
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