研究調査報告書 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
平井 東幸 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
昭和38年の業界動向・・組合機関誌からみた関西セルロイド業界(その15) セルロイド産業史29 |
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1.昭和38年 −オリンピック景気の1年 今回も『関西セルロイド情報』(関西セルロイド・プラスチック工業協同組合の月刊誌)をベースに昭和38(1963)年の業界動向を概観しよう。 この年の経済は、オリンピックを控えて好調だった。国際的には、中ソ対立が激化、11月にはケネディ大統領が暗殺されるなど騒然とした1年だった。国内では、経済白書「先進国への道」を発表、政府は貿易自由化を進め、自由化率が92%になった。倉敷レイヨン(現在のクラレ)はビニロンプラントを中国に輸出することになり(対中プラント輸出第1号)、かたや、三ちゃん農業.・・つまり、「じいちゃん、ばあちゃん、かあちゃん」の三ちゃんで農業を営み、「とうちゃん」は出稼ぎに出掛けたのであった。こうして労働力が地方から都会に移動し、産業構造の高度化が進展したのであった。 世相面では、NHKが大河ドラマ第1号の「花の生涯」を放映、「高校3年生」(舟木一夫)、「こんにちは、赤ちゃん」(梓みちよ)が流行し、巨人の王と長嶋が「ON砲」と呼ばれた。「流通革命」「バカンス」が流行したのもこの年であった。 2.セルロイド業界、需給関係はさらに軟調へ 前年の昭和37年は、需給はやや軟化したが、昭和38年の生地生産推移をみると(表1)、新製は一層の減産となり、前年比12%のダウンと、あの不況の33年レベルよりも大きく落ち込み、4千d台になった。そして、セル生地設備の稼働率は、なんと45%程度であった。 表1 セルロイド生地生産の推移(単位:トン)
次に、生産と出荷の内訳を、昭和35年から38年についてみると(表2)、 生産では新製の減少が著しい。出荷は国内、輸出とも減退・・・とくに輸出が落ち込んでいる。セルロイド業界は輸出を梃に発展してきただけに、その減退は業況を大きく左右することになった。輸出減は、海外メーカーとの競合激化の結果というよりも(わが国は樟脳等が割高な面があるが)、むしろ海外市場での各種プラスチックの進出を反映したもの。 表2 生地の生産と出荷の推移(単位:トン)
3.昭和38年のトピックス 業界をめぐるトピックを同誌からいくつか紹介してみよう。 1) 柄物生地事情とその対策 プラ製品との競合激化のなかで、セル生地は柄物で対抗してきたが、「此の為に柄物生地の試作が急増し、又納期遅延が増加して生地メーカーはその整理と処理に困難な状況となった。1月、2月と2回にわたり加工業者と生地メーカーは具体的な打合会を組合主催で開催した。この結果、柄物の整理、厚味の平均削り分け等、ある程度の製造引請条件に制約を加え生産の円滑化を図った」(『関西セル・プラ工業協同組合設立40周年記念誌』p42)。しかしながら、「その後の印刷技術の向上で、塩ビシートの柄ものが急速に出回ることになり、セルの優位性は失われていくことになった」。 2) 優良品マークの推進とPR活動 組合では、セル製品の品質の優位性を消費者に訴求するため製品優良化事業を展開してきた。「その具体策として優良品マーク(意匠登録済み)をデザインして各種製品に添付し、消費者に安心して買える手掛かりとする」ことになり、これを産経新聞、関西テレビを媒体としてPRすることにした(同記念誌p43)。そのコピーは「くらしの中に明るいムード、美しくて丈夫なセルロイド製品、このマークが保証するセルロイド製品、素敵です」というもの(『セルロイド情報』昭和38年9月号p11)。このほかにも、大阪雑貨フェアへの参加(16社が出展)等、PR、宣伝活動がいよいよ本格化する世の中で、出遅れ気味のセル業界も組合のセルロイド振興部会が中心になって活動を強化していた。もっとも、「セル業界は昔から宣伝を知らぬ業界と言われてきた」(同誌12月号p12)。 3)セルロイド加工業の五つの経路 ここ数年で大きく変貌したセルロイド製品メーカーには、次の五つの経路で現状に至っているという(同誌昭和38年3月号)。 @ マンネリに陥り、活路をプラスチックに手を染めて、セル製品は止めたところ。 A セル製品の片手間で、自動射出成型を研究し、安価にあがる量産品の魅力もあってポチポチと転換したところ。セルとプラと双方を扱う。 B 職人を使う煩雑さを嫌って人手を省くため機械化を進め自然とプラに転向したところ。 C セル生地の引き取り、製品製造、販売、売上経路の長さに、直ちに間に合うプラ扱い業に転進したところ。すなわち、資本回転率の良さに魅惑された転向組。 D 昔ながらのセル製品では、新しみが無いと、2世の息子たちが中心でプラに乗り出し、結果としてあまり儲からないが、近代化した気分でいる人たち。 以上、いささか皮肉交じりの表現ではあるが、セル業界がプラに追われて縮小を余儀なくされるなかで、製品業者が如何に転進を図ったのかが伺い知れる。この転身組については「長年の業界に後足で砂を掛けるような行為で転換を図る人々もいる」との批判もあった。がしかし、その後のプラスチック加工業を支えることになっただけに、中小零細企業の事業転換の事例としても参考になる。 なお、当時の業者の内訳であるが、セル専業、セル・プラ兼業、プラ専業が各々約3分の1であった。そして「セル専業は追々なくなりつつある」と業界の切迫した状況が記されている。 4) 大阪セルロイドクラブの刷新 昭和26年に「業界人の親睦、懇談の中心的な組織として」設立された同倶楽部は、大阪セルロイド会館(写真)で、講演会、見学会、趣味の会等の企画・開催を通して業界発展を側面的に貢献してきた。以来12年が経過して、この年に設備調度の一新、事業の充実を図り、新たに活動を開始した。このような同業者クラブは、有力な業界では多くあるが、組合,協会等の活動と表裏一体をなして、業界の発展に寄与してきている。 4.おわりに 昭和38年の業況は、縮小均衡がさらに進展した。頼みの輸出は減少、内需はプラスチックとの一層の競合激化、加工業者のプラスチックへの転進、さらなる労働力不足等によって事業採算は悪化した。とくに、プラスチックでは、機械化、量産化が進むため、手作りの労働集的なセルロイド加工業はさらに苦境に追い込まれる事態となった。 そもそもセルは生産工程がプラに比べて長く、コスト高なところに、樟脳の値上がりを初め、副資材等のコストアップが続く中で、生地、製品とも値上げが行われたが、業界は、長期構造的な調整局面に入っていった。 この稿についても、セルロイド産業文化研究会の大井瑛大阪代表のご点検と追加情報の提供、貴重な写真の提供も頂きました。ここに記して謝意と致します。(2019年11月7日) <写真出所;『大阪セルロイド・プラスチック工業協同組合40年記念誌』> |
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著者の平井東幸氏は、東京産業考古学会理事、葛飾区伝統工芸審査委員長で、元嘉悦大学教授、千葉県在住。 |
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