研究調査報告書 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
平井 東幸 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
昭和39年の業界動向・・組合機関誌からみた関西セルロイド業界(その16) セルロイド産業史30 |
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1.昭和39年 −東京オリンピック開催、新幹線開通 今回も『関西セルロイド・プラスチック情報』*(関西セルロイド・プラスチック工業協同組合の月刊誌)をベースに昭和39(1964)年の業界動向を概観しよう。 この年は東海道新幹線(東京、新大阪間)が開通し、東京オリンピック(94か国が参加)が開催され、国民の気分は大いに高揚した年だった。国際的には、IMF(国際通貨基金)の8条国移行、OECD加盟等と、それまでの統制経済から脱して開放経済体制となって、敗戦後20年足らずで先進国の仲間入りを果たした。 経済社会面では、東京・阪神間がダイヤル即時通話となり、家庭用VTRの市販開始、世界初のオールトランジスター製卓上計算機の発売、無線タクシー登場、海外旅行の自由化と、国民生活は便利になり、経済活動も大きく進展した。 世相面では、三波春夫の「東京五輪音頭」が大流行、上野の国立西洋美術館のミロのビーナス展には京都を合わせて170万人以上が入場。流行語としては「トップレス」、「OL」が、ファッションでは、銀座みゆき通りに「みゆき族」が登場した。 *この年から誌名にプラスチックが加わり『関西セルロイド・プラスチック情報』と改称された。 2.セルロイド業界、業容はさらに縮小 昭和39年の生地生産推移をみると(表1)、新製はさらなる減産となり、前年比6%のダウンで、ついに4千d台を割った。再製生地もさらに減産となり、セル生地の生産量は戦後間もなくの1949年をも下回った。設備稼働率は、40%程度に低迷した。 表1 セルロイド生地生産の推移(単位:トン)
次に、出荷内訳を、昭和35年から39年についてみると(表2)、国内、輸出ともさらに減退し、39年は合計で前年比8%のダウン。内外市場の縮小を見て取れる。最近のピークの昭和36年と比較すると、輸出は弱含み横ばいながら、国内向けは4,500d強から39年には3,200d弱へと3割の大幅減少となって、この間の国内加工業界の規模縮小が大幅であったことがうかがわれよう。 表2 生地の生産と出荷の推移(単位:トン)
(注)昭和35年の数字は一部で表1と一致していない。 3 昭和39年のトピックス 業界をめぐるトピックを同誌からいくつか紹介してみよう。 1) 用途別の新製生地投入の変遷 需要が次第に減少する中で、用途別の推移はどうなっていたのか? 同誌1965年4月号の「生地のうごき」欄によると、概ね次のようである。当時の 新製生地は、三大用途の、眼鏡フレーム、櫛、化粧容器で全体の約50%を占め、次いで楽器、筆入れ、文具雑貨を含めると全体の3分の2を占めた。この主要用途の投入量は昭和36年から39年の3年間に眼鏡フレーム20%減、櫛25%減、化粧容器35%減、筆入れ30%減、他方で文具230%の大幅増、楽器130%増、印刷用20%増と、用途によって明暗が分かれた。 詳しくは下表の通りである。実に多種多様な用途に使われていた。そして櫛、頭飾品、眼鏡フレーム、化粧容器などは、セルロイド特有の美しさ、感触の良さが発揮されていることを見逃せないだろう。プラスチックとの競合がますます激化するなかでありながらも、セルロイドはなお用途によっては、その審美性を活かして市場を維持していた訳である。
2)需要振興事業の推進 組合では、セル製品の需要が縮小を続ける中で、優良製品マークの制定、展示会への参加等とその振興・PR活動を強化してきた。39年度は東京、大阪でセルロイド・プラスチック優良雑貨製品展示会及びコンクールを開催し、通産大臣賞を初め、都知事賞、大阪と東京のセルロイド・プラスチック協同組合賞などの17の賞を授与して、業界の再活性化を図ることにした。この時期、出品作品はセルロイドのみならず、プラスチック製が増加し、その分野も「多様な部品的製品から、あらゆる日用品雑貨に拡大」していた。 因みに、当時の関西組合の構成は、セル専業が約2割、セルとプラスチックとの兼業が約3割、そしてプラスチック専業が約5割という、素材的にも既にプラスチックが主流となっていたのである(同誌:昭和39年10月号)。 3) 輸出検査実績の推移・・・昭和31年をピークに減少へ 戦後も輸出製品の粗悪品を防止し、品質の維持と向上を図るため、輸出検査法に基づき、各業界ごとに輸出検査協会が設置された。輸出検査統計は、従って通関統計とは異なる段階での統計である。日本プラスチック検査協会よると、昭和27年以降の推移は表4の通り。 表4 セルロイド輸出検査実績(単位;百万円、FOB)
(注)1.生地及び製品の合計 2.万年筆、鏡枠、レンズ眼鏡枠入れ等、その他プラスチック検査協会に於いて取り扱わない製品を含まない。 3.この統計は昭和38年以降については掲載されていない。 大阪の輸出検査額が東京を上回り、その比率は年々大阪のウエイトが上昇しているが、これは生地が大阪中心であることも反映している。また、昭和31年をピークに、検査額は低減しており、この間の物価上昇を考慮すると、実質的にはさらに低減していることになろう。 4)組合機関誌の休刊 組合が昭和25年以来、毎月欠かさず発行してきた『セルロイド・プラスチック情報』が昭和40年8月号を最後に休刊することになった。配布先は、組合員は勿論のこと広く関係官庁等各方面であり、業界のPRと発展に大きく資してきた。同誌は、ひろく国の内外の業界情報のみならず、論壇を提供して業界の発信力を強化維持してきた。休刊の理由は、「人手不足と資金難が上げられているが、セルロイドからプラスチックへの時代の大きな底流が影響していることは否めない」(『組合創立75周年記念誌』)としている。時代は、戦中・戦後の統制経済から開放体制に移行する局面に入り、役所と業界をつなぐ業界団体の役割低下もその背景にあったとみられる。 4 おわりに 昭和39年の業況は、さらに規模縮小が進展した。頼みの輸出の不振、内需はプラスチックとの一層の競合激化、加工業者のプラスチックへの転進、さらに「人手上の問題、原材料の高騰、生産品種の複雑多様化等、これ以上は無理と考えられる限界点に達しつつある」と(同誌昭和40年4月号の「生地のうごき」欄)。ただし、見逃せないのが、表3にみた通り用途が絞られてきていること、そして増加している用途も一部あるが、しかし総じてみると、セルロイド不況はさらに深刻化して、企業は一層事業転換を強いられる事態となっていった。 なお、この連載は『セルロイド・プラスチック情報』を中心に関連文献を参考にして昭和25年以降逐年の業界動向をまとめてきた。同誌が昭和40年8月号を以って廃刊されたので、この連載も、今回で一応終了します。昭和40年以降の業界動向については、別の資料を求めてまとめてみたいと考えます。 この稿についても、セルロイド産業文化研究会の大井瑛大阪代表のご点検と追加情報の提供等を頂きました。ここに記して謝意を表します(2020年1月31日)。 |
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著者の平井東幸氏は、東京産業考古学会理事、葛飾区伝統工芸審査委員長で、元嘉悦大学教授、千葉県在住。 |
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