研究調査報告書 |
平井 東幸 |
東京・葛飾のセルロイド加工業の産業集積 セルロイド産業史6 |
「 葛飾區セルロイド工業発祥記念碑 大正三年四月わが国セルロイド工業会の先覚故千種稔氏がこの地に初めて玩具工場を設けてより三十有餘年 斯業は幾多の優秀な後継者たちの努力によって日に月に発展し 今や関係者数万を超えその生産額はわが国輸出額の過半数を占める繁栄を示し 實に葛飾工業地区の中心となるに至った 昭和二十六年秋 渋江公園が千種氏創業の由緒深いこの地域に開設せられるに當り この地域の発展を希う地元有志相はかってセルロイド工業発祥にふさわしい平和と希望とを象った記念児童群像を長沼孝三氏に委嘱し 公園に美しい風景を添えると共に遥かに先人の遺業をしのぶよすがとした 昭和二十七年十一月二十三日 ところで、葛飾区は、西は荒川で区切られ、東は江戸川が千葉県との境になっている。北は足立区と埼玉県三郷市、南は江戸川区である。人口は44万人。 「このほか特記されるのは大正3年旧本田村川端(今の渋江公園)の地に、我が国セルロイド業界の大立役者として知られる千種稔が設立した千種セルロイド工場であろう。この工場は大正9年の不況時代に没落したが、当時既に従業員二五〇余名を有する大工場で、その後渋江、四つ木方面がセルロイド工業の街として発達し、都下はもちろん、全国的にその名が宣伝されるようになったのは、この千種セルロイド工場に起因するものである。」 そこで、この記念碑の千種稔とはいかなる人物であろうか。明治の産業史として著名な『明治工業史前十巻 工業篇』(大正14年、日本工學会)によると、千種は播州明石藩の出で、廃藩後、家業は明石珠製造であった。セルロイド加工業の始祖である大阪の西川伊兵衛の店員を経て、セルロイドの生地製造に取り組んだが、この時は不成功に終わった。その後、「千種は東京千住在四ツ木に五千有余坪のセルロイド生地製造並びに工場を有し、東都セルロイド界の重鎮として目せられたり」と同書は記述している。つまり、千種は東京でのセル業界のパイオニアの一人ということである。 周知のところだが、東京は大阪とともに、大正から昭和20年代までは、わが国セルロイド加工業の双壁であった。その東京でかつて第一の規模(ということは、わが国屈指の規模)を誇った葛飾のセルロイド加工業の集積を回顧してみよう。 表1 東京セルロイド工業組合の組合員の分布 さらに、これを別の統計により時系列でみると、表2の通りで、セル玩具工場は、昭和8年では、墨田、葛飾、荒川、城東(現在の江東)の4区で83.7%と圧倒的なシェアを占めていた。だが、セルロイドからソフトビニール等のプラスチックに原料転換した昭和38年には、工場数は昭和8年の5分の1に減少し、立地も葛飾、荒川、墨田、台東(当時の浅草区)で合計わずか50に減っている。そのなかで、葛飾区のウエイトは終始大きかったのである。 表2 セルロイド玩具工場の推移 以上の2表で紹介したのは、組合員企業ないし工場である。実際には、このほかに多数の家内工場や内職があったし、プレス、塗装、彩色、バリ取り、さらには生地代理商、物流、セル屑回収などの業種、仕事があった。したがって、葛飾区を中心とする東京東部では、セルロイド加工に従事した事業所は表記の少なくとも数倍に上っていたとみられる。まさに、セル加工の一大集積地であった。セルロイド製の玩具等は、多品種、季節性、安価での供給などの特性があり、そのため、東京東部のような零細企業が中心となって小回りのきく生産体制が求められたのである。 |
著者の平井東幸氏は、東京産業考古学会副会長で、元嘉悦大学教授、千葉県在住。 |
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