セルロイドサロン
第100回
松尾 和彦
セルロイドは儲かる商売だった



 1914年(大正三年)、ヨーロッパで起きた戦火が見る見るうちに広がっていき遂には世界中を巻き込むという人類の歴史上最大最悪の戦争となります。


この第一次世界大戦は、日本にとっては遠い国で起きている戦争でしたが日英同盟のよしみからイギリス、フランスを中心とする連合国側に味方します。そのためドイツの租借地であった青島や南洋諸島を攻撃したりしました。

 しかし日本の戦闘は局部的なものであり被害も後の第二次世界大戦に比べると小さなものでした。



 この戦争が日本にもたらした最も大きな影響は何といっても空前の好景気です。ヨーロッパ中が戦火に見舞われていますので注文は日本に殺到することとなります。アメリカが最初のうち中立を保っていたこととも相まって増産に次ぐ増産となり、設備投資を行い配当も増やしていきました。



 セルロイド業界もこのような恩恵にあずかりました。何しろ初任給が40~50円の時代にセルロイド玩具加工業者は一日に百円の収入があったのです。実入りはそれだけではなくプレス加工機一台から一日につき二貫(7.5キログラム)ほど出る屑を再製業者が一貫につき十八円で引き取りますから、毎日三十六円の臨時収入があるわけです。これが毎日ですから金銭感覚が完全に狂ってしまうこととなりました。

 もちろんこのような好景気は何時までも続くものではありません。戦争が終わってしまうと今度は不景気になってしまい倒産夜逃げが相次ぐこととなりました。



 第一次世界大戦が終結してから二十年近くが経った1937年(昭和十二年)に発行された「有望確実な現代家庭副業案内(雄恒社、蔵本長治編)」という本に、セルロイドがいかに儲かるかを紹介している記載があります。その本から初期投資に必要な費用、経費、利益などを見ていくこととしましょう。先ずはピン加工業からです。

 初期投資: 必要な経費(日): 利益:
端削り台(鉛筆削り式) 一台15.00円 生地 一貫目 17.5円 6.65円/日
押切台 一台8.00円 燃料代 0.75円
金盥 一個3.00円 ボール箱 二十八個 5.60円
火鉢 一個2.00円 アセトン及び色素 0.50円
合計 28.00円 男工二人工賃 4.00円
女工二人工賃 2.00円
荷造費、販売費 3.00円
雑費 2.00円
合計 35.35円

 利益の内訳は一日につき一箱1.50円のものが28個出来ますので代金は42.00円。差し引き6.65円になるという計算です。一月にすると約200円の利益が上がります。



 では人形製作ではどうでしょうか

 初期投資: 必要な経費(日): 利益:
煉瓦竃 一台10.00円 セルロイド板二貫三百匁 14.30円 8.90円/日
金型 四組160.00円 石炭 1.00円
プレス 二台28.00円 浮石鹸 0.05円
鉄板 一枚5.00円 男工一人工賃 3.00円
手押しポンプ 一個6.00円 女工二人工賃 3.25円
ヤットコ 大小二挺 3.00円 彩色費 2.50円
四斗樽 一本5.00円 鉛玉代 5.00円
尺度付押切 一台10.00円 ボール箱50個 2.50円
西洋鋏 大小三挺4.00円 燃料費 2.00円
彩色用大小刷毛及び筆類2.00円 合計 33.60円
木箱その他雑具3.00円
合計 236.00円


 利益の内訳は一日に五十個製造可能で一個が0.85円とすると42.50円の売り上げとなり、一日に差し引き8.90円の利益が上がります。これを一月続けると約250円の利益が上がるという計算になります。



 それでは当時の物価と給与がどれくらいのものだったかを見ることとしましょう。



 米10キロ 2.20円、蕎麦一杯 10銭、ビスケット一箱 10銭、電気ブラン一杯 12銭、コーヒー一杯 15銭、タオル一枚 1円、シャツ一枚 1円、子供の科学 80銭、オール読物 70銭、背広一着 30~40円、家賃(板橋区の六畳、四畳半、三畳、台所、洗面所) 13円、銀座の地価(一坪) 10,000円
大工さんの手間賃(一日) 2.20円、教員の初任給 50円、総理大臣の給与 830円



 当時は意外に物価が高かったことようですが、驚くのが家賃の安さです。これらの数値で月に200~250円の利益というのがどれほどのものだったかが分かります。



 ただし使われる方は大変です。林芙美子は大震災のありました1923年(大正十二年)にセルロイドの玩具加工屋に務めていました。震災があってから二ヶ月半が過ぎた十一月十五日は、ちょうど給料日で芙美子の書いているところを見ますと朝七時から夕方五時までの十時間労働で日給七十五銭です。溶剤などの臭いがきつくて気分が悪くなるほどでした。

 男子工員は重い金型を動かさないといけませんし、夏ともなると四十度から五十度にも達して一日に三升の水を飲み塩の塊を口に放り込みながら仕事をしたものです。

 セルロイド加工業、中でも玩具加工屋が一番忙しいのは夏でした。というのもクリスマスのプレゼントが最大の需要なのですが、南米やヨーロッパなどに送るためには夏の間に生産して秋には送らないと間に合わないのです。今のように飛行機でその日のうちに到着する時代と違って船で一ヶ月以上もかかっていた時代には苦労が多かったようです。また現地の港に到着してからも一ヶ月かかっていました。このような交通事情の悪さが現場にしわ寄せとなってきていたのです。



 ただし他の仕事と比べると恵まれているほうで「女工哀史」でお馴染の岡谷の紡績工場は、十六時間労働で年収が百五十円程度。しかも年季奉公として身売り金のようなものを受け取っていますので、手元に残るのはさらに僅かになります。

 もっと酷いのが「この世の地獄」と言われた炭鉱労働者で、見かけだけは月に百円以上の給与があることになっていますが、宿泊費と食費で半分以上を持っていかれます。それでも五十円以上あるように思えますが、貰える金は炭鉱の中の購買でしか使えないもので、しかも購買で売られている品の価格は一般価格の五倍から十倍以上。こちらも年季奉公で最初に支度金を持っていかないと働けないようになっています。あまりの辛さに途中で辞めようものなら違約金を請求されるという、今では考えられないものでした。

 両方共に激務の為に若死にする人が多かった業種でした。また炭鉱では毎日のように事故が起きて、亡くなる人も多かったのですが、一人二人が犠牲になる程度の事故では報告すらされませんでした。



 これらからすると、きちんと働いていればそれ相応の稼ぎとなるセルロイド業界は恵まれていたと言えます。使われる方も頑張り次第で経営者となることが出来ました。



 儲かる商売であったセルロイド業界に暗い時代をもたらしたのはやはり戦争で「国家総動員令」により、働き手を失った業者は潰れるしかありませんでした。兵隊は国民の義務とされていたために給与は無し、補償などもちろんありません。これでは潰れるのも当然です。

 さらにセルロイド加工業企業整備令により三十坪以上でないと認められなくなってしまいました。セルロイドに限らず町工場は十五坪もあればいい方ですから、ほとんどがやっていけなくなってしまいます。そこで考え出した方法は数社が合併して「櫛工場」「眼鏡工場」「玩具工場」などとして生き残る方法です。

 ところが一般民需向けのセルロイドが生産停止となってしまいます。こうなると業者の涙ぐましい努力も潰えてしまいます。こうしてどうしようもないところにまで追い詰められた末が敗戦だったのです。



 セルロイド業は儲かる仕事ではあったが、浮き沈みの激しい業界だったのです。



著者の松尾 和彦氏は歴史作家で近世、現代史を専門とし岡山市に在住する。


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