セルロイドサロン
第124回
松尾 和彦
あの人もセルロイドに携わっていた


渡辺政之輔(1899年9月7日~1928年10月6日)

 1919年2月、東京亀戸の永峰セルロイド工場に前年に東大生によって結成された新人会の分会が出来ました。この分会は5月6日になると新人セルロイド工組合(全国セルロイド職工組合)へと発展します。

 新人会は1929年11月22日に解散しますが関わったメンバーを見ると河野密、佐野学、野坂参三、宮崎龍介、林房雄、大宅壮一、武田麟太郎、藤沢恒夫など多士済々です。

 これら東大生の中にあって渡辺政之輔は異質の存在でした。現在の市川市に生まれた渡辺は小学校卒業後に永峰セルロイド工場に勤めだし、まだまだひどい条件下で働いていた労働者の待遇改善を要求するようになります。
永峰セルロイド工場のあった葛飾区南部は、当時の新興工場地帯で活気もありましたが一方ではスラム地帯も存在していました。渡辺はそのような状態を見るにつけ労働運動にのめりこむようになります。そしてセルロイド職人の待遇改善運動を行ったのを皮切りに共同印刷、日本楽器などの労働争議を指導します。
まだ非合法だった時代の共産党の書記長まで務めた渡辺ですが、台湾で官憲に追い詰められて拳銃自殺を遂げるという非業の最期を遂げます。
誰からも慕われる人物だった渡辺の死は共産党に同じ年に起きた大量検挙(三一五事件)以上の衝撃となり、労働運動はこれから以後一気に力を失っていきました。

林芙美子(1903年12月31日~1951年6月28日)

 森光子がでんぐり返しを行うシーンは舞台放浪記のハイライトとしてあまりにも有名です。この原作者林芙美子がお土産用のセルロイド玩具を作っていたのは関東大震災があった1923年のことです。

 北九州市門司区生まれの芙美子は母とともに長崎、佐世保、下関、鹿児島、尾道などを転々とします。そのため自伝を放浪記と名付けました。
「浮世離れて奥山住まい、こんな卑俗な唄に囲まれて私は毎日玩具のセルロイドの色塗りに通っている。日給は七十五銭なりの女工さんになって今日で四ヶ月…」

 芙美子は1923年11月15日のことをこのように書いています。ところが芙美子が行っていた仕事は主に露天商で他に下足番、女給などとしても働いていました。また震災の後には尾道や四国などに避難していて東京に帰ってくるのは翌1924年になってからです。芙美子は他人から聞いた話などを自分のこととして書いたのかもしれませんが、今となっては真相は闇の中です。

 1930年に出版された放浪記は評判が高く、五年後には夏川静江が主演の映画となります。その後も角梨枝子、高峰秀子、小林千登勢、樫山文江、大竹しのぶらが芙美子を演じました。

 売れっ子作家となった芙美子は戦後九本もの連載を抱えるまでになりましたが、1951年6月26日の夜半に倒れ翌日に47歳で急死しまいました。

豊田正子(1922年11月13日~2010年12月9日)

 1937年、大衆の生活を子供らしい素直な視点から描いた綴り方教室と題する本が大ベストセラーとなります。作者は本田小学校四年生だった豊田正子。ただしこの時点では既に卒業して女工としてセルロイド工場に勤めていました。翌年には高峰秀子の主演により映画化されます。
まさにあれよあれよという間に人気作家となったわけですが、一方では大人の世界の汚さも思い知らされます。貧しい職工の家に生まれた正子は綴り方教室に「人間は平等だ」「金持ちも貧乏人も無い世界が理想だ」などとも書いているのですが、削られてしまいました。また正子に入ってくるはずの印税を残らず横取りされてしまいます。さらに映画化された時に高峰秀子が女工を見下すような発言をしたために内容証明で反論しています。
このような経験をしたからでしょうか戦後には共産党に入党します。そこで妻子のある江馬修と夫婦同然の関係となり中国に渡り文化大革命を称賛する文を書いたりしますが、江馬は女子大生と関係を持ち、正子を捨ててしまいます。そのため一人細々と宝飾店に勤めていました。その店員がかつて一世を風靡した人気作家とは誰も知らなかったと言います。
「共産党は貧乏人の味方だと思っていたがそうではなかった」と裏切られ続けた人生を送った正子が没したのは2010年12月9日。訃報欄に小さく名前が載りました。

渥美清(1928年3月10日~1996年8月4日)

 その国民的スターの死が伝えられた時には既に密葬が終わり骨となっていました。病気であったということを知らなかった人々には驚きのニュースとして伝わりました。

 国民的大スターの名前は渥美清(田所康雄)。日本人なら誰もが一度は見たことのある「男はつらいよ」シリーズの主演を務めた名優でした。

 渥美の父は長野県の新聞記者でしたが反権力の姿勢を貫いたために官憲に睨まれ退社を余儀なくされます。地元にいられなくなって東京にやってきた一家の収入は、元教員の母親が封筒張りの内職で稼ぐ僅かばかりの金が総てでした。このような貧しい生活のために健康を害し腎臓炎、関節炎、膀胱カタルなど数々の病気を患う長欠児童となります。しかし明るい性格でラジオで聞いた落語や声帯模写などを披露していました。戦後も肺結核のために右肺を摘出しています。

 渥美がセルロイド工場で働いていたのは結核を患う前か患っていた頃だと思われます。が体の良さをかわれて力仕事であるロール工を任されたのに、あまり役に立たなかったのはこの辺りが関係していたのかもしれません。

 このようにセルロイドには意外な有名人も携わっていたのです。まだ他にもいるかもしれませんのでご存知の方は連絡をお願いします。



著者の松尾 和彦氏は歴史作家で近世、現代史を専門とし岡山市に在住する。


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