研究調査報告
平井 東幸

戦後の経済雑誌にみるセルロイド業界(その1)
セルロイド産業史7



 現在も、セルロイドは卓球ボール、眼鏡フレーム、ギターのピックなど楽器に、他の素材では代替不可能な用途に使われている。映画「三丁目の夕日」でもセルのメリーゴーラウンドなどの小道具が巧みに使われて、昭和30年代の雰囲気を盛り上げていた。因みに、あの映画で使用された製品はこのセルロイドハウス横浜館が貸し出したもの。その実物は同館2階に展示してある。
 
 セルロイドは、こうして中高年の人々の懐かしい思い出のなかに今なお生きているが、それだけに時々、TVや雑誌で取り上げられるし、2011年初めにはNHKの夕方の番組「ゆうどきネット」の「あれ、ある?まだ、ある?」のコーナーでも紹介された。このところの昭和ブームで、若い世代にも眼鏡フレームにみられるように新鮮さが受けているようだ。

占領下のセルロイド産業
 最近図書館で、戦後の経済雑誌でセルロイド関係の記事を調べてみた。そうすると、昭和20年代から30年代前半にかけて、関西経済連合会の機関誌や都市銀行の調査月報に業界動向や課題を伝えた記事を多く発見した。

 そこで、敗戦後から昭和24年の状況をよく伝えるものとして、関西経済連合会の機関誌『経済人』(同年10月号p45、46)に載った大日 本セルロイド・伊藤吉次郎社長の「輸出産業としてのセルロイド工業」から少し長くなるが以下に引用してみよう。


 「戦後のセルロイド工業は急速に復興したが、原材料,燃料等の供給之伴わず、生産回復も容易には進捗しなかったが、輸出産業としての重要性が逐次総司令部並に日本政府の認識を得るに随い、資材面等の隘路も打開せられ、生産も漸次上昇の一途を辿り、且つ業者数も現在新製生地業者十社、再製生地等専門業者十七社と算するに至った。

 加工業者は、戦時中の企業体から離合集散し、例えば吹込人形の如きものは、その可塑性に於て、合成樹脂の追随を許さず、当セルロイド生産工程上の特色から来る各種各様の様式は加工仕上に於ける吾国特有のハンドワークの妙味自ら本工業の進むべき路は拓かれているのであり、関東地方には玩具工場を初め約三百八十、関西地方には刷子、櫛、腕環等の如きものを製造する工場約三百、合計六百八十軒が操業しており、更に増加の傾向である。・・・・」


 上記は敗戦後わずか4年目の状況である。まことにその復興への意気込みは旺勢ではないか? 因みに、敗戦の年から昭和24年度までの生産は次に通りで、20年度にはピーク時の昭和12年の12,760トンの8分の1の1,520トンであったが、24年度には5,476トンに急速に回復していることがわかる。

 表1 生地の生産推移   (単位:トン)
年度 新製生地 再製生地 合計
20 1,520 ・・ 1,520
21 1,655 686 2,341
22 1,667 937 2,604
23 2,746 1,342 4,089
24 4,291 1,184 5,476

 (出所)通産省『化学工業製品生産実績 1926〜1949』
 (注)公知のように、セルロイド硝化綿工業会の数字とは若干の相違がある。

 なお、冒頭に最近のセルロイドの需要は、眼鏡フレーム、ピンポン球、楽器関係位と述べたが、昭和23年の内需(2,640d)の内訳を、当時のセルロイド硝化綿工業会資料から引用すると、次の通りで、現在のプラスチックの用途をほぼ網羅しており、あらためて需要の多様なことが知れるではないか?(単位:トン)

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 耐久材部品;796、身辺細貨雑貨;461、文房具;426、櫛・頭部飾り;242、歯ブラシ;240、
 玩具;183、各種容器;180、眼鏡フレーム;60、卓球ボール;48、水道管;4
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 (注)このうち、水道管については商業化されなかった。


産業復興五カ年計画 
 そこで、占領下の統制経済下で策定された五カ年計画のうち、セルロイドは次の通りであり、なかなか意欲的な復興計画であった。


 表2  セルロイドの五か年計画(単位:トン)

年度 新製生地 再製生地 合計 内輸出量
24 3,750 1,250 5,000 2,000
25 4,680 1.320 6,000 2,400
26 5,600 1,400 7,000 3,000
27 7,200 1,800 9,000 4,200
28 8,800 2,200 11,000 5,600

(出所)『経済人』昭和24年10月号p45


 しかしながら、その実績はというと、必ずしも十分ではなかったのである。すなわち、昭和26年までは実績が計画を上回ったが、27年(以下、暦年である)の実生産量は7,810トン、28年7,420トン、そして29年の8,354トンをピークにその後は減少に転じたのであった。その理由を60年後の現在推測すると、以下の通りだ。

@計画値自体がかなり大雑把であったというか、意欲的であったこと。例えば、生地生産量の合計は、毎年千トンづつ増え、昭和28年には、2千トンも増やす計画であったこと。

Aこの間の米国等における石油系のプラスチックの登場で、引火性に問題のあるセルへの潜在需要が伸び悩み始めたこと。

Bセルロイド以外の化学合成素材が相次いで開発されて製品化され始めたこと。

C朝鮮戦争の終結などで、急激な経済・産業復興のテンポが一段落し、需要の伸びも低下したこと。


主要産業であったセルロイド
 以上、戦後の連合軍による占領下を中心にわがセルロイド工業の復旧・復興を概観したが、その結果、次の点が指摘できるだろう。 

1)昭和20年代から30年代の前期にかけて、各種経済誌に、セルロイドが鉄鋼、肥料、石炭、貿易等と並んで繰り返し採り上げられていたが、これは戦後のわが国で輸出産業の一つとして(輸出比率5割強)重きを置かれていたことを示しており、まことに感慨深い。 

2)敗戦直後から、復興のため原料割当、資材輸入、輸出等の面で、業界は一致団結してGHQ(占領軍総司令部)と日本政府に対して懸命の陳情を繰り返して、努力していた。 

3)昭和21年の農地改革、物価統制、労働組合法、財閥解体、同22年の公職追放令などの矢継ぎ早の占領政策、昭和25年の朝鮮動乱、昭和27年の対日講和条約発効による独立を回復・・・・といった激動の時代のなかで、セルロイド産業はいち早く復興し、外貨獲得、中小企業への仕事提供、雇用の場創出等を通じて経済社会に、とりわけ関西と東京東部において大きく貢献した。

 以来約60年が経過し、冒頭に述べたように、セルロイドは、もはやノスタルジーの対象になっているが、上記のように戦後暫くは、わが国の主要な産業の一つとして重視され、戦後経済の回復の一翼を担ったという歴史があったことを想起することは、わが国の産業構造の高度化、産業の変遷を考える際にも必要ではなかろうか。
 現在の経済は、営々とした過去からの積み重ねの上に成立しているからである。(2011年9月8日)

著者の平井東幸氏は、東京産業考古学会副会長で、元嘉悦大学教授、千葉県在住。


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