セルロイドサロン
第136回
松尾 和彦
記録を伝えてきたセルロイド

 先日一つの時代が終わったことを御存知でしょうか。経済面や文化面に小さく載った記事ですので見落とされた方もいるかもしれませんが、山田洋次監督は「これで本物は作れなくなった」と嘆き、北野武監督は「文化に対する殺戮行為だ」と怒りました。また菅原文太は「もう出番はなくなった」と俳優業を引退することを表明しました。日本での映画フィルムの製造が終了したのです。サロンの60でも伝えましたように音声・映像などの記録媒体としてセルロイドは重要な役割を果たしてきました。


 音声・映像などはその時その時のもので記録をしておかないと一瞬にして失われます。これを何とかして遺し後世に伝えようとの努力は驚くほど昔から行われていて十世紀頃にエジプトのイブン・アル・ハイサムがカメラ・オブスクラの研究をしていたと伝えられています。またレオナルド・ダ・ヴィンチも行っていて有名なトリノ聖骸布は、日光写真ではないのかとの説もあります。1685年にはヨハン・ツァーンが図解を遺しました。

 しかしこれらは何れも伝承もしくは机上の話で、実際に成功したのは1825年のニエプス、1839年のダゲールといったところからです。



 媒体としてセルロイドを使おうとの試みはハイアットによって発明される前からあって1851年にショーンとレ・グレイが硝酸セルロースで湿式膜板を開発しています。また同じ年にスコットがコロジオンの写真への応用に成功しました。

 このスコットは音声においてもフォノトグラフ(波形図)を遺しています。ただし音声を記録として伝えるまでには至らず、成功したのは1877年のエジソンとなります。



 その後少し時代が空いた1884年にイーストマンがセルロイドの写真ベースを開発したことにより本格化します。最初は動かない写真にだけだったのが動画にも使われるようになりました。その頃になりますとセルロイド製造加工技術も向上していたので良質なフィルム状セルロイドが生産されるようになっていきました。

 その後順調にフィルム生産が伸びていきましたが第一次大戦の頃になると需要に供給が追い付かない事態となりました。この時に思いもつかない理由で供給不足が解消されたとの話をサロンの60に書きましたので、訳を知りたい方はもう一度お読みになってください。



 このように記録を伝えてきましたセルロイドですが、燃えやすいという欠点がありました。そのため近江絹糸や大原劇場の火災が起きることとなりました。

 この火災ですが当時は熟練の映写技師が兵隊にとられて素人が行っていました。始めの頃はマニュアル通りに行っていたのですが、慣れてくるに従って省略するようになります。また煙草を片手に操作するなどの危険な行為を行うようになりました。その結果の火災でセルロイドが原因ではありません。

 でも燃えやすいというのは事実ですので次第に酢酸セルロースに取って代わられるようになりました。その酢酸セルロースも劣化するに従って酸っぱい匂いがして組織破壊が起きるというビネガーシンドロームが起き、ポリエステルに代わりました。そしてとうとうデジタル化の波に抗しきれずポリエステルフィルムまでもが生産を中止したのです。

 最初に名前を挙げました三人は何れもこのような状況を嘆いています。また本格的に楽しみたい人はフィルムを使用します。出来ることなら今後も細々とでよいから生産を続けてもらいたいものです。

著者の松尾 和彦氏は歴史作家で近世、現代史を専門とし岡山市に在住する。


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