セルロイドサロン
第137回
松尾 和彦
戦後を救った樟脳、セルロイド

 昭和二十年(1945)八月十五日、長く激しかった戦争が終わりました。その時、人々が直面していた大問題は如何にして食料を得るかでした。この年の米の収穫高は約603万トン。これは直前五年間と比べると二十五パーセントもの大減収でした。この取れ高を当時の最低配給であった一日二合一杓(315グラム)で割ると五千二百五十万人分ということになり、二千万人分も不足しているという計算になります。

 話を進める前に今現在の平均的な一日当たりの米の消費量はどれぐらいになると思われますか。最後に答えを書きますのでそれまでの間に考えてみてください。

 

 二千万人分もの食糧不足は、繰り越し米、麦、雑穀、サツマイモ、ジャガイモ等だけで賄えるような数字ではありません。そのため緊急的な食糧援助を仰ぐこととなったのですが、戦争で徹底的に破壊された日本には見返りとなる物資がありません。そこで政府が目をつけたのが樟脳と薄荷でした。

 当時日本には約八百もの樟脳工場がありましたが、都会から離れた山村にあったことが幸いして殆どが被害を免れました。また大正年間の終わり頃から以後三千万本もの樟苗木を無償交付していたために材料が豊富にありました。


 そこで見返り物資として樟脳12万キログラム、セルロイド190万キログラムが計上されました。


 また薄荷は食料ではなかったことと輸出が途絶えたために戦争中は生産が激減していたのですが、見返り物資として目を付けられました。というのは大消費地であるアメリカで生産される薄荷には結晶しないという欠点がありました。そのため日本産をということです。


 

 本当にこれだけの樟脳、薄荷が見返り物資として供給されたかは分かりません。しかしかなりの人々が救われたということは事実です。

 

 戦争終結からちょうど二年が過ぎた昭和二十二年(1947)八月十五日、民間貿易が再開されました。これで名目上は政府による輸出だったのが民間輸出となって拍車がかかりました。それまで一千億円を切っていたものが三千億近くになり四千億を超えていきました。この中でセルロイドが占める割合が四割にもなったのです。如何にセルロイドの輸出が凄いものだったかが分かります。

 この順調な輸出が戦後の日本を救ったのでした。

 このセルロイド特に玩具ですが、事故が相次いだために危険なものとしてアメリカへの輸出が禁止となった話は有名です。でも禁止となった頃には既に日本の経済も社会体制も、そして農業もかなり再建されていたために大打撃とはなりませんでした。

 ちなみに輸出が禁止された昭和二十九年(1954)の米の生産量は約1200万トン。先の計算をあてはめますと一億五百万人分となり、一千万人以上も余剰があったことになります。

 その後米の生産量は多い年で1400万トンを超えていましたが、消費者の米離れや生産調整などにより近年では900万トン程度となっています。

 

 先程問題を出しました日本の国民一人一日当たりの米消費量は何と一合一杓(165グラム)。これですと一億五千万人分の米を生産していることになります。

 戦後のあのひもじい思いをした頃に比べて一合(150グラム)も消費量が少なくなっていることには驚かれるでしょう。それは当時は米や芋ばかり食べていて副食がなかったからだと思われるでしょうが、カロリーで計算しても今の方が少ないのです。誰もがガリガリに痩せていた戦後の時期と、メタポリックシンドロームと診断される人が溢れている今の時代とでこのような事実があるのは驚きです。動物性脂肪などの消費が増えたことが原因でしょうが、肥満には気をつけたいものです。




著者の松尾 和彦氏は歴史作家で近世、現代史を専門とし岡山市に在住する。


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