1)生い立ちとセルロイドとの出会い
昭和21年に東京都葛飾区で生まれた。祖父と父が昭和22年に同区四つ木でセルロイド加工業を創業したので、幼い頃から家業の仕事を見ながら育った。同地はセルロイド玩具の一大生産地であり昭和30年代前半までが最盛期であった。家業の手伝いを本格的に始めたのは大学を卒業してからである。その後セルロイドから塩ビのお面に転換して玩具製造を続けたが、縁起物用としてセルロイドの需要はあった。平成13年にセルロイド人形を復活させてからは「ただ一人のセルロイド職人」としてマスメディアに取り上げられ、セルロイドが一挙にブレークして現在に至っている。
2)現在の仕事の概要
平成9年に著名なコレクターに依頼されてディズニーの許諾を得てミッキーマウスのセルロイド人形を復刻したのがきっかけで、その良さを再認識した。幸い人形の金型が一つだけ残っていたので、当時、生存していた父が40年ぶりにセルロイド人形を作った。父はそのすぐあとに亡くなったので、セルロイドに生涯たずさわってきた父にとっては良い思い出になった。
平成14年にホームページを立ち上げると共に、人形のイベントに参加してセルロイド人形を披露したところ、人形ファンやコレクターから大きな反響があった。その後、デパートに出店したり、数々のドールイベントに参加してセルロイドの良さを知ってもらう機会を持った。
昔はセルロイド人形は、パートを職人や多くの女工が手がけていたが、今は成形から彩色、組立まで私が一人でやっている。
原料のセルロイドは中国で作られたものを問屋経由で仕入れ、人形はホームページと人形のイベントなどで販売している。人形の購入層は9割9分が中高年の女性で人形ファン。自分で服を作って着せたりして、セルロイド人形の顔を書いたりして楽しんでいる。このほか、地元足立区から頼まれて区のイベント用にセルロイド玩具を少量生産している。
セルロイド人形の製造は、成形からバリ取り、彩色、組み立てと手間暇がかかる作業。機械による量産には不適。しかし、セルロイドは手触りに温かみがあり、硬く冷たいプラスチックとは違う。着色が容易で発色性に優れている。そしてとくに手作りの良さが評価される。反面、人形一体3500円と高くなるのも、原料が1㎏3000円と他のプラスチックの数倍から10倍するのと、すべてが手作業による。しかもセルロイド生地は1ロット(130㎏)で50万円の発注にもなるが、他方で生産は少量なので、これも大きな問題である。
新しいセルロイド人形の製作を考えたことがあるけれど、金型代が300万円ほどになり、人形の製造コストが高くなるので作るのをあきらめた。
後継者を問われることがあるが、市場がニッチであることでこの仕事だけで生計を立てるのは難しいので後継者の育成は諦めている。
3)以前の事業
平井玩具加工所として戦後事業を開始したことは冒頭に述べたが、当時は内需に加えて輸出も旺盛で業界全体が活況を呈していた。家業なので子供の頃からセルロイドに親しみ、学生時代には製品の納品、外注先への配達、輸出検査等を手伝い、20代半ばから本格的にこの商売に携わってきた。
商売の流れについては、蔵前の複数の玩具問屋の下請けとして、金型を貸与されて、原料は自己調達、職人、内職も使ってセルロイド玩具製造をしていた。業界ではこれを「セル屋、ロイド屋」と称していた(因みに当社のメールアドレスはhirai@celluya.com)。セルロイド人形とお面が主力で、セルロイドの縁起物(鯛、招き猫、大黒、恵比寿などの正月用の飾り部品)を副業的に作っていた。
しかし昭和30年代になると、米国によるセルロイド玩具の禁輸(可燃性)があり、かたや合成樹脂の登場によってセルロイドから安価でより安全な塩ビ等に原料転換が進み当社でも塩ビ製のお面を作りに転業した。しかし、縁起物の需要があったでセルロイドの仕事はやめなかった。
昭和30年には足立区大谷田町に移転した。当時周囲は農村であり、人手募集にはプラスであった。
さらに10年後には現在の同区辰沼に移転した。ただ、商売の中心は、依然として成形屋等の関連事業者も葛飾区が主体であったので、忙しく往復したものである。その後、アジア諸国の経済発展があり、こうした労働集約的な雑貨類の製造は国内から海外に徐々に移転していった。
「セルロイドは昭和とともに終わった」と思っている。そうしたなかで、父はセルロイドに最後まで愛着をもち続けてくれたことが、その後のセルロイド人形の再生産につながったと今も感謝している。父こそ「セルロイド人形の最後の職人だった」と思っている。
4)マスメディアへの対応
「唯一、最後のセルロイド職人」としてマスコミ等の関心を集め、この10年は新聞や雑誌、さらにはラジオ、テレビの取材を受けている。とくに平成19年には、テレビ朝日の「地井武男のちい散歩―昭和散歩」で取り上げてくれ、3度も放映された。同年には日経新聞の文化欄(2007.11.29)に「セルロイド人形に再び命」として写真入りで大きく掲載されたこと,また、平成22年には英字紙「インターナショナル・ヘラルド・トリビューン(2010.11.25)」でも取り上げられたことが記憶に残っている。
さらに平成12年には地元足立区の有志によるウエブマガジン「足立社長列伝」にも取り上げられて、ネット上で生産工程を含めて動画が公開されている。
以上の取材や出演はこの10年で50回を超えている。テレビなどで紹介されると放送中から電話が鳴って、セルロイド人形を欲しいという問い合わせがたくさん来る。
セルロイド人形を復活させた時期がインターネットの勃興期と重なり、ホームページを作ってセルロイドを紹介し、自分で販売をしているのが、今も人形作りを続けている所以だ。これが販売を他人に委託していれば、セルロイドの仕事はとうの昔に終わっていただろう。
年
表
年 次
記 事 |
昭和22(1947)
祖父と父が葛飾区四つ木で創業
27(1952) 葛飾区本田町に移転
30(1955)
事業拡張のため「平井玩具加工所」、足立区大谷田町に移転
40(1965)
現在地の同区辰沼に移転 社名を「平井玩具製作所」に変更
塩ビ製のお面製作業に転進、セルロイドの縁起物は継続
60(1985)
塩ビ製のお面製造中止、セルロイドの縁起物製造に特化
平成13(2002)
セルロイド人形製造を40年ぶりに復活
岩井勲生氏の知遇を得て、銀座でセルロイド人形を展示販売
14(2003) ホームページを作成し、セルロイド人形の販売を始める
ドールイベントに初めてセルロイド人形を出品
以後、年に4~5回イベントに参加してセルロイドの啓発に努力
日本テレビにセルロイド人形が初出演
17(2005) セルロイド産業文化研究会評議員に委嘱される
18(2006) セルロイドハウス横浜館で「みんなのセルロイド展」を2回開催、
人形ファンが大勢参加
縁起物は採算に合わなくなったので製造を中止
19(2007)
テレビ朝日「地井武男のちい散歩―昭和散歩」3度再放映
日本経済新聞に「セルロイド人形に再び命」掲載
22(2010)
NHKテレビ・「ゆうどきネットワーク」に登場
英字紙「International Herald Tribune」に掲載
25(2013)
NHKラジオ・すっぴん「お囃子えりちゃんの職人ええじゃないか」
NHKテレビ・ドラマ「夫婦善哉」のセル人形内職を指導
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5)岩井勲生氏との出会い
平成13年9月に岩井氏からアンティークモール銀座のセルロイドハウスガラスケースコーナーにセルロイド人形を展示販売しないかと誘いを受けたのが、お付き合いの始まりだった。以来、親交が深まり、手持ちの金型(キューピー等)やセル製品(鯛などの縁起物)を寄贈して展示していただいている。他方で、同館からは人形等の金型をお借りして製品を作ったりしている。その後、岩井社長が主宰されているセルロイド産業文化研究会の評議員に委嘱されている。同氏との出会いにより、セルロイドには、実に奥が深くて広いものがあるとの認識を得ることができて感謝している。
6)終わりに
50年余りセルロイド玩具の仕事をしてきた。この間業界は様変わりしたが、「以前は問屋の下請け、量産体制であり、商品は消耗品であった。ところが今は、自分の企画製造し、商品は顧客が大事にしてくれる。仕事が楽しみだ」。幸いにマスメディアにも取り上げられて、世間の関心を維持してはいる。量産品、画一品が席巻している現代においても手作り製品が受け入れられることは嬉しい。ただし、セルロイドは「商売としての将来性はないとは思うが、今後とも人生の楽しみとして終生続けてゆきたい」。
なお、ご関心の向きは、ネットで「セルロイドドリーム」で検索して当社ホームページを訪れていただきたいと思います。
(2013年8月22日、平井氏自宅兼工房でのインタビューの概要である。聞き手・文責:平井東幸)
(2013年8月26日)
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