研究調査報告
平井 東幸
戦後の経済雑誌にみるセルロイド業界(その4)
セルロイド産業史10


 敗戦の混乱からセルロイド業界もいち早く再建を始めた。当時の状況を伝える貴重な資料としては、『三和銀行経済月報』(昭和24年2月)や『富士銀行調査月報』(昭和24年4月)がある。恐らく、当時の業界動向を解説する資料としては最も古いものであろう。今回、両行のご協力でこの両雑誌を入手できたので、これらも参考に、以下、敗戦直後から昭和20年代半ばまでの激動の業況を紹介する。


戦災からの復興
 昭和19年から米軍による本土爆撃が始まり、昭和20年には首都東京も対象となった。東京は5回の空襲を受け、東日本で一番のセルロイド生地能力を有していた大成化工(株)の上平井工場も被災した。同社の社史『大成化工のあゆみ』(平成16年)によると、「爆弾の直撃による被害は建屋の倒壊、爆風による窓ガラスの破損など惨憺たる有様となったが、唯一の救いだったのは火災にならなかったことであった。無事残ったのは事務所と塗料工場などわずかに数棟のみであった・・・・この空襲の被害により、当然ながら生産、そして営業活動は完全に停止、全社一丸となっての復旧作業に取り組んだのである」と。

 昭和20年8月の敗戦でドン底に落ちた業界も、すぐに復旧に乗り出している。再び大成化工の事例では「被災によって地方へ疎開した従業員を呼び寄せるための宿泊用家屋の借用、布団を購入するなど労働力の確保が図られた。復旧資材は焼失を免れた工場を購入して、その解体材があてられた」。その結果、翌21年6月には上平井工場は再開された。

 このような状況が程度の差はあれ全国の工場で見られたのである。


著しいモノ不足・・・生産と設備の状況
 昭和20年のセルロイド生地生産は戦前ピークの12年の15%弱に落ち込んだ。表1の示す通り、21、22年は2000トン台で生産の回復は遅々としていた、これは、全国いずこも、食糧はもとより原料や電力の不足、物流の不足、資金不足と、労働力以外はあらゆるものが不足ないし欠如していたからである。しかし、原料面では軍需工場時代の原料在庫活用もあり、とくに企業や業界団体の懸命な努力によって23年頃からは生産が順調に回復し、民間貿易再開により輸出も復活した。

表1 セルロイドの生産・出荷(単位:トン)
昭和(年)  生産(新製)  同(再製)  生産合計  国内出荷   輸出  出荷合計
 20        1,517           124         1,641          1,600     ---        1,600
 21            1,706           480         2,186          2,200         ---        2,200
 22            1,498           744         2,242          2,060          140       2,200
 23            2,350          1,258         3,608          2,500        1,100       3,600
 24            4,119          1,236         5,355          3,400        2,000       5,400
 25            4,476          1,494         5,970          4,000        1,900       5,900
 26            5,527          1,519         7,046          5,400        1,600       7,000
 27            6,341          1,469         7,810          6,000        1,200       7,200  
 
 (資料) セルロイド硝化綿工業会  


 そこで、この時期のセルロイド業界の苦難に満ちた実情を少しみてみよう。

 まず、設備面では、表2の示すように昭和23年3月現在で、6,360トンであった。うち、大日本セルロイドが62%を占めていた。戦災に遭った工場が少なくなかった中で、まことに幸いなことに大セルが被災しなかったことが、戦後のセルロイド復活にとって大きなプラスであったことを見逃してはならない。そして周知のように大セルの網干工場は世界一の規模であった。

 なお、表以外に戦後続々と新規企業化が行われた。23年度から再製メーカーが26工場、新製メーカーが6工場、それぞれ操業開始ないし操業計画中であったが、その規模は中谷化学を除きいずれも小規模であった。新規企業化が相次いだ理由としては「硝化釜と混和圧延設備があれば或程度の技術で曲りなりも生産出来るので、大規模及び高技術を必ずしも必要としない比較的素朴な化学工業である」からだった(『富士銀行調査月報』。


表2 主要各社別生産能力(昭和23年3月現在)
 社名          工場名(所在地)  年産能力(トン) 
 大成化工            上平井(東京)            360          
 大日本セルロイド     東京 (東京)                 360
                                 網干(兵庫)             3,600
 旭化成          延岡 (宮崎)                  840
 瀧川工業                   網干(兵庫)            720
 筒中セルロイド      大阪(河内)             480
    合計                            6,360 
     (出所)『三和銀行経済月報』昭和24年2月(p1)
       (注) 1.再製を含む。ただし、大セルは、東京は再製のみ、網干は新製のみ
      2.上記のほかの再製メーカーとして、次がある。括弧内は年産能力(トン)
        永峰セルロイド(360)、鎌田セルロイド工業所(140)、東京セルロイド工業所(120)、
        日本セルロイド化工(140)

 なお、設備面で付言したいのが、賠償指定であった。昭和21年8月に大日本セルロイド(網干)、瀧川工業(網干)、筒井セルロイド(河内)、大成化工(東京・上平井)、東京セルロイド(志村)の5工場が賠償指定を受けた。軍需工場であったことが、指定の理由であった。しかし、翌年には早くも筒井と大成化工は解除され、他工場もその後解除された。


原料不足と割高
 次に、原料面では、全てが不足であった。原料費は総コストのうち約7割を占めるが(表3)、とくに問題だったのは、樟脳であった。当時アメリカの2〜3倍の割高さが採算を大いに圧迫した。樟脳はアルコールとともに専売局(その後の日本専売公社、現在の日本たばこ産業(株)の専売品であった。業界では再三再四その引き下げを当局に要望したが、専売局の言い分は、終戦で樟脳の輸入は途絶、「内地の樟は今後13,14年分しかなく今年から樟の造林5カ年計画をはじめており、この造林経費にセル業者のいう収益が注ぎ込まれている」。よって国内に植林するので価格の引下げは不可能というものであった。

 いささか脇道にそれる嫌いはあるが、樟脳については次のような経緯があったことも紹介しておきたい。すなわち矢野信雄(セルロイド生地倶楽部)は『専売』(昭和28年12月号)の「樟脳とセルロイド」の中で、次のように述べている。「樟脳の専売は、戦争時代の統制に先立って樟脳の配給統制を行った・・・戦時統制のモデル・ケースの如く、昭和11年に自主統制を実施していた」のであると。

 硫酸、硝酸については量が不足していた。肥料用に最優先に配分されたからである。不足気味の原料の価格がこうも高くては、企業経営には大きなマイナスであった。しかも、原料はおしなべて低品質であった。これが原料原単位を上げ、一層の採算の悪化をもたらしていた。もっとも、戦中戦後と、物資はすべて品質が低下していたのであるが。
このほか、電力については、停電や電圧低下は日常茶飯事であった。今日では到底想像も出来ないことである。さらに、輸送のネックも鉄道を含めてひどいものであった。

 他方で、唯一供給に問題がなかったのは、労働力であった。豊富低廉で良質・勤勉な労働力は海外からの引揚げもあり有り余っていたからである。しかも、労務事情もセルロイドは「比較的平穏であった」(『三和銀行調査月報』)。工場の規模がダイセル以外は小さく、しかも都市部の周辺に立地していたためであると。

表3  セルロイド生地原価計算表(一号品キロ当り円)
 原価内訳        公定(昭和24年7月改訂)
 原材料          353
 労務費                       28
 経費                       21
 減価償却費                 0.3
  部内費                     13
  金利他                       16
 
  合計           431
 (出所) 『三和銀行経済月報』(昭和24年2月号 p3)
 (注)1.原価構成の細目は省略した  2.円未満は四捨五入した。


著しい需給ギャップ
 戦後の人心の荒廃と社会の極端な混乱のなかで、毎日の生活をとくに都市部で脅かしていたのは食糧をはじめ物資・サービスの甚だしい欠乏であった。ハイパーインフレの中、金を払っても入手出来ない状態が慢性化していた。セルロイドでも事情は全く同じで、昭和22年度の需給は、需要の約3割しか供給できていない。23年度第4・4半期でも、需要の4割しか供給できなかったのである。需給は極度のアンバランスにあるので、「セルロイド生地は「指定生産資材」ではないが、昭和22年第2・4半期に準じて商工省化学局、生活物資局、貿易庁に於いてその配給を決定し、化学局及び商工局から割当通知書を発行した」。
 
 23年度第4・4半期の当局の需給綜合調整計画によると表4のとおりである。進駐軍向けは100%を割当てたが、輸出向け92%、他方、炭坑向けは44%、平均では41%であった。経済復興と輸出促進という国家目的に沿って欠乏する資源を割当てていたのである。


 表4   需要と割当(トン)
需要内訳   需要量(a)  配分量(b)   b÷a(%)
進駐軍             10               10               100     
官庁証明
  輸出      600               550                 92
    炭坑            40               18                  44
  交通通信        91               19                21
  食糧増産      251                 6                   2
  医療衛生      106               17                  16
  復興経済      270               49                  18
計画生産         450               75                  17
緊急保留                              7
  総計           1,817              750                 41
 
  (出所)『富士銀行調査月報』(昭和24年4月 p9)
  (注)昭和23年第4・4半期の需給綜合調整計画による。


 輸出用が需要の92%の割当で、総割当量の実に73%だったのは、当時の日本では食糧輸入のため外貨獲得が至上命令であったからである。そして事実セルロイド工業は重要輸出産業の一つであったので、資材割当面でもこのように優遇されたのである。輸出用生地の内訳は、大日本セルロイドが概ね80%、旭化成、瀧川、筒井の順であった。
並行して価格統制も行われていた。不足する物資を国民経済的にもっとも有効に配分するには、量的統制と価格統制が車の両輪であったからだ。セルロイド生地については、物資割当と公定価格が実施された。ただし、再製はその対象外であった。海外旅行も海外送金も自由である現在からすれば、まことに今昔の感がある。

 市況をみると、表5の通りに急騰しており、当時の著しいインフレを物語っている。敗戦の昭和20年8月を100とすると、翌21年3月は5倍弱、22年9月には25倍、さらに23年7月には54倍の超インフレ振りである。 
   
 こうした官民挙げての対策・対応で24年に入ると、需給は一転緩和したという。折から政府は公定価格制度(昭和15年8月に設定)、いわゆる丸公を25年7月に廃止した。価格騰貴は緩和したが、その後の朝鮮戦争も勃発もあり、値上がりは続いた。その後は20年代末のピークに向かって業況は一進一退を続けたのである。


表5 セルロイド生地の公定価格推移(新製、単色、キロ円)
昭和(年月)    価格      指数 
       20.8             7.95             100
       21.3            38.20             480
       22.9          199.00          2,500
       23.7          430.00          5,408
       25.7           撤廃             ---
       26.3          480.00          6,037
       26.12          550.00          6,918
 (出所)矢野信雄「セルロイド工業の現状」(『日化協月報』1953年7月号)


終わりに
 今からでは到底想像もつかない程の混乱と貧困と困難の時代に、セルロイド業界はまことによく頑張ったものである。輸出産業であり、都市部の労働集約的な業界であることなどが、政府等のバックアップを得られた主因であった。と同時に、敗戦直後のセルロイド生地業界は、大正8年の台湾総督府専売局長官の斡旋による生地メーカー8社の大企業合同と、戦前からの樟脳・アルコールの専売制度という国策的な業界構造からの急激な脱却に直面していたことも看過できないところである。

<謝辞>このレポート作成に不可欠であった敗戦後の昭和24年の刊行物の入手に関しては、みずほ総合研究所ならびに三菱UFJリサーチ&コンサルティングに大変お世話になりました。ここに記して謝辞と致します。(2013年9月19日)


<平井東幸略歴> 昭和33年早稲田大学第一商学部卒業、日本化学繊維協会調査部長、(株)繊維総合研究所取締役調査情報部長、岩手県立宮古短期大学教授、岐阜経済大学教授を経て、嘉悦大学教授、平成18年同退職。現在、セルロイド産業文化研究会評議員、東京産業考古学会副会長

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