研究調査報告 | ||||||||||
平井 東幸 | ||||||||||
戦後の経済雑誌にみるセルロイド業界(その4) セルロイド産業史10 |
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表1 セルロイドの生産・出荷(単位:トン)
そこで、この時期のセルロイド業界の苦難に満ちた実情を少しみてみよう。 まず、設備面では、表2の示すように昭和23年3月現在で、6,360トンであった。うち、大日本セルロイドが62%を占めていた。戦災に遭った工場が少なくなかった中で、まことに幸いなことに大セルが被災しなかったことが、戦後のセルロイド復活にとって大きなプラスであったことを見逃してはならない。そして周知のように大セルの網干工場は世界一の規模であった。 なお、表以外に戦後続々と新規企業化が行われた。23年度から再製メーカーが26工場、新製メーカーが6工場、それぞれ操業開始ないし操業計画中であったが、その規模は中谷化学を除きいずれも小規模であった。新規企業化が相次いだ理由としては「硝化釜と混和圧延設備があれば或程度の技術で曲りなりも生産出来るので、大規模及び高技術を必ずしも必要としない比較的素朴な化学工業である」からだった(『富士銀行調査月報』。 表2 主要各社別生産能力(昭和23年3月現在)
(注) 1.再製を含む。ただし、大セルは、東京は再製のみ、網干は新製のみ 2.上記のほかの再製メーカーとして、次がある。括弧内は年産能力(トン) 永峰セルロイド(360)、鎌田セルロイド工業所(140)、東京セルロイド工業所(120)、 日本セルロイド化工(140) なお、設備面で付言したいのが、賠償指定であった。昭和21年8月に大日本セルロイド(網干)、瀧川工業(網干)、筒井セルロイド(河内)、大成化工(東京・上平井)、東京セルロイド(志村)の5工場が賠償指定を受けた。軍需工場であったことが、指定の理由であった。しかし、翌年には早くも筒井と大成化工は解除され、他工場もその後解除された。 原料不足と割高 次に、原料面では、全てが不足であった。原料費は総コストのうち約7割を占めるが(表3)、とくに問題だったのは、樟脳であった。当時アメリカの2〜3倍の割高さが採算を大いに圧迫した。樟脳はアルコールとともに専売局(その後の日本専売公社、現在の日本たばこ産業(株)の専売品であった。業界では再三再四その引き下げを当局に要望したが、専売局の言い分は、終戦で樟脳の輸入は途絶、「内地の樟は今後13,14年分しかなく今年から樟の造林5カ年計画をはじめており、この造林経費にセル業者のいう収益が注ぎ込まれている」。よって国内に植林するので価格の引下げは不可能というものであった。 いささか脇道にそれる嫌いはあるが、樟脳については次のような経緯があったことも紹介しておきたい。すなわち矢野信雄(セルロイド生地倶楽部)は『専売』(昭和28年12月号)の「樟脳とセルロイド」の中で、次のように述べている。「樟脳の専売は、戦争時代の統制に先立って樟脳の配給統制を行った・・・戦時統制のモデル・ケースの如く、昭和11年に自主統制を実施していた」のであると。 硫酸、硝酸については量が不足していた。肥料用に最優先に配分されたからである。不足気味の原料の価格がこうも高くては、企業経営には大きなマイナスであった。しかも、原料はおしなべて低品質であった。これが原料原単位を上げ、一層の採算の悪化をもたらしていた。もっとも、戦中戦後と、物資はすべて品質が低下していたのであるが。 このほか、電力については、停電や電圧低下は日常茶飯事であった。今日では到底想像も出来ないことである。さらに、輸送のネックも鉄道を含めてひどいものであった。 他方で、唯一供給に問題がなかったのは、労働力であった。豊富低廉で良質・勤勉な労働力は海外からの引揚げもあり有り余っていたからである。しかも、労務事情もセルロイドは「比較的平穏であった」(『三和銀行調査月報』)。工場の規模がダイセル以外は小さく、しかも都市部の周辺に立地していたためであると。 表3 セルロイド生地原価計算表(一号品キロ当り円)
(注)1.原価構成の細目は省略した 2.円未満は四捨五入した。 著しい需給ギャップ 戦後の人心の荒廃と社会の極端な混乱のなかで、毎日の生活をとくに都市部で脅かしていたのは食糧をはじめ物資・サービスの甚だしい欠乏であった。ハイパーインフレの中、金を払っても入手出来ない状態が慢性化していた。セルロイドでも事情は全く同じで、昭和22年度の需給は、需要の約3割しか供給できていない。23年度第4・4半期でも、需要の4割しか供給できなかったのである。需給は極度のアンバランスにあるので、「セルロイド生地は「指定生産資材」ではないが、昭和22年第2・4半期に準じて商工省化学局、生活物資局、貿易庁に於いてその配給を決定し、化学局及び商工局から割当通知書を発行した」。 23年度第4・4半期の当局の需給綜合調整計画によると表4のとおりである。進駐軍向けは100%を割当てたが、輸出向け92%、他方、炭坑向けは44%、平均では41%であった。経済復興と輸出促進という国家目的に沿って欠乏する資源を割当てていたのである。 表4 需要と割当(トン)
(注)昭和23年第4・4半期の需給綜合調整計画による。 輸出用が需要の92%の割当で、総割当量の実に73%だったのは、当時の日本では食糧輸入のため外貨獲得が至上命令であったからである。そして事実セルロイド工業は重要輸出産業の一つであったので、資材割当面でもこのように優遇されたのである。輸出用生地の内訳は、大日本セルロイドが概ね80%、旭化成、瀧川、筒井の順であった。 並行して価格統制も行われていた。不足する物資を国民経済的にもっとも有効に配分するには、量的統制と価格統制が車の両輪であったからだ。セルロイド生地については、物資割当と公定価格が実施された。ただし、再製はその対象外であった。海外旅行も海外送金も自由である現在からすれば、まことに今昔の感がある。 市況をみると、表5の通りに急騰しており、当時の著しいインフレを物語っている。敗戦の昭和20年8月を100とすると、翌21年3月は5倍弱、22年9月には25倍、さらに23年7月には54倍の超インフレ振りである。 こうした官民挙げての対策・対応で24年に入ると、需給は一転緩和したという。折から政府は公定価格制度(昭和15年8月に設定)、いわゆる丸公を25年7月に廃止した。価格騰貴は緩和したが、その後の朝鮮戦争も勃発もあり、値上がりは続いた。その後は20年代末のピークに向かって業況は一進一退を続けたのである。 表5 セルロイド生地の公定価格推移(新製、単色、キロ円)
終わりに 今からでは到底想像もつかない程の混乱と貧困と困難の時代に、セルロイド業界はまことによく頑張ったものである。輸出産業であり、都市部の労働集約的な業界であることなどが、政府等のバックアップを得られた主因であった。と同時に、敗戦直後のセルロイド生地業界は、大正8年の台湾総督府専売局長官の斡旋による生地メーカー8社の大企業合同と、戦前からの樟脳・アルコールの専売制度という国策的な業界構造からの急激な脱却に直面していたことも看過できないところである。 <謝辞>このレポート作成に不可欠であった敗戦後の昭和24年の刊行物の入手に関しては、みずほ総合研究所ならびに三菱UFJリサーチ&コンサルティングに大変お世話になりました。ここに記して謝辞と致します。(2013年9月19日)
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<平井東幸略歴> 昭和33年早稲田大学第一商学部卒業、日本化学繊維協会調査部長、(株)繊維総合研究所取締役調査情報部長、岩手県立宮古短期大学教授、岐阜経済大学教授を経て、嘉悦大学教授、平成18年同退職。現在、セルロイド産業文化研究会評議員、東京産業考古学会副会長 |
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