セルロイドサロン
第17回
松尾 和彦
セルロイドと人形
「青い目をした御人形はアメリカ生まれのセルロイド」、野口雨情の名作「青い目の御人形」は、アメリカから日米親善のためにセルロイド人形が贈られたことによって作られた。

 このように思い込んでいる人はいないでしょうか。しかしこの短い文の中に誤りが二つあります。先ず「青い目の御人形」が発表されたのは一九二一年(大正十年)の暮れに発行された「金の舟」十二月号でした。そして二年後にはアメリカでも演奏されて好評を博しています。これに対して親日家の牧師シドニー・ギューリックの発案によりアメリカから御人形が贈られたのは一九二七年(昭和二年)のことでした。次にその御人形はビスクドール(素焼き)であって、セルロイド製ではなかったのです。

 でも、そのような時代から歌にまでなるほどセルロイドの御人形が親しまれていたことが、これで分かります。

 では、何時頃からセルロイドが御人形の材料として用いられていたのでしょうかを調べてみることといたしましょう。

 ご承知の通りセルロイドは、アメリカのジョン・ウィスレイ・ハイヤット、イギリスのアレキサンダー・パークスらによって一八六○年代に発明されました。初期の目的は、これも良く知られていることですがビリヤードボールに用いる象牙の代用品でした。

 もちろん当時は大変に高価なものでしたので象牙や鼈甲、珊瑚などの代用品として用いられていました。そのような状況では玩具に用いることなど考えもつかなかったことでしょう。

 このセルロイドは十九世紀の終わり頃になると、大量生産されるようになり価格も下がりましたので、玩具の材料としても使われるようになりました。先ずはガラガラなどの簡単なものが作られました。その頃に作られました人形は顔だけがセルロイド、それもワンプレスで作ったものに布や練り物張子のボディーをつけるという簡単なものでした。

 その頃、セルロイド製造の先駆者でもあった永峰清次郎がセルロイド玩具の製造にも乗り出しました。最初は「起き上がり小法師」「ガラガラ」などだったのですが、一九一三年(大正二年)に空気の吹込みによる人形を作り特許を取りました。この人形を三越などのデパートで売り出したところ、軽くて美しかったので旧来の日本人形を圧倒して全国に普及していくようになりました。

 なお、セルロイド玩具の製法には以下のようなものがあります。

  • 切り抜き物 セルロイドの板を型に切り取り、組み合わせて作られたもの(風車)
  • 湯押し物 板生地を型にはめ、熱湯に漬けて押して成型したもの。(ピンポン玉、ガラガラ)
  • 吹き込み物 鋳型にセルロイドの板生地二枚を挿入して加熱し、空気を吹き込んで膨らしたもの(人形、動物)

 そして翌年には寺本圭助が東京亀戸にローヤル商会加工場を設立し、千種稔が葛飾区四ツ木に大規模な工場を建設しましたので、永峰の工場と合わせて三大セルロイド加工工場が揃いました。

 その頃、アメリカでまさにセルロイドのために作られたのではないかという新キャラクターが誕生しました。言うまでもなくキューピーです。千種はキューピーに力を入れ欧米各国へ輸出するようになりました。「アメリカ生まれのセルロイド」が「日本生まれのセルロイド」に変わっていったのです。

 時を同じくしてヨーロッパで起きた戦禍が世界中を巻き込みました。そのためドイツ、イギリスなどのセルロイド生地メーカーが一斉に火薬工場に転じました。あおりを受けた玩具メーカーは生産をストップしたために、戦争の被害を受けていない日本に注文が殺到するようになりました。そのため空前の活況を呈することになり、零細な業者でも一日に百円の利益を挙げたと言われています。その頃の大卒者の初任給が月給で四十円前後でしたから、いかにセルロイド業者が多額の利益を挙げていたかが分かります。

 もちろんこのような超好景気が、そんなに長続きするわけがありません。一九一八年(大正七年)に戦争が終結すると、反動による不況が訪れました。中小零細はもとより千種の工場までもが倒産に追い込まれました。そのため千種、ローヤル、一條、十全の四社が合併して「中央セルロイド工業株式会社」が設立されました。この会社は間もなく廃業に追い込まれてしまいましたが、その跡地は渋江公園となり「葛飾区セルロイド工業発祥の地」の記念碑が建っています。(その頃、セルロイド製造メーカーも八社が合併して大日本セルロイド(現ダイセル)が発足しています)

 その後、苦難の時代が続きましたが、昭和の初めになりますとセルロイド玩具は年額五、六百万の生産額を挙げるまでになりました。もちろん世界第一位で日本の輸出玩具の中でも一位でした。

 この頃に売り出された玩具の値段を見ますと六十銭、一円二十銭、一円八十銭などのものがよく見られます。これはその当時の円とドルの交換レートが一ドル二円四十銭であったために、二十五セント(六十銭)、五十セント(一円二十銭)、七十五セント(一円八十銭)に対応しているためです。この傾向は戦後にも続き今度は九十円(二十五セント)、百八十円(五十セント)、二百七十円(七十五セント)と、一ドル三百六十円(一九四九年〜一九七一年)に対応したものがよく見られるようになりました。 

 昭和の初め頃には戦争もそれほど激しくなかったものですから、セルロイド人形もキューピーの他に、少年、少女、動物など平和な雰囲気を漂わせているものが多く作られていました。

 そんな一九三二年(昭和七年)十二月十六日、今だに語り継がれている惨劇が起きます。この日の朝、日本橋白木屋デパート(後の東急デパート日本橋店。現在コレド日本橋のある所)から出火してたちまちの内に全館に広がったのです。男性店員五名、女性店員八名、出入りの業者一名が犠牲になった火事の火元は玩具売り場でした。電球を取り替えるときに散った火花がクリスマス飾りのモールに引火して燃え上がり、さらにセルロイド玩具に延焼して大惨事となったのです。

 この火事の後、各デパートではセルロイド玩具を撤去します。また売上も激減しました。そのために不燃性のものが出来ましたが、価格が高かったために実用に適しませんでした。
 そのうちに人々の記憶も薄れて再びセルロイド玩具が人気を博すようになりましたが、不幸にも戦争が激しくなったためか玩具までもが、「皇軍万歳」と書かれた吊り物とか狙撃兵、高射砲といった戦時色を強く現したものになっていきました。そしてさらに激化していくとセルロイド玩具そのものが作られなくなってしまいました。

 戦後はセルロイド工場は残らずアメリカに接収されてしまいましたが、それでもセルロイド玩具の製造は行われました。MadeInOccupiedJapan(占領下の日本製の意味。一九四六年から一九五一年までの輸出品にはこのように書かれています)と刻印された玩具が大量に輸出されたのです。

 この頃はセルロイドが貴重品でしたので非常に薄いものが作られました。まるで紙のように薄くすることは技術的に困難なことなのですが、職人達の努力によって克服しました。

 この頃はアメリカ向けの輸出が中心でしたのでディズニーのキャラクターが中心になりましたが、そこへパープー(papoose:赤ん坊,幼児などの意味)人形が現れました。猿や少女などの人形に赤や青などの派手な色をつけた鳥の羽を纏わせて木や竹の棒にぶら下げたものですか゛、これが爆発的に売れました。戦後日本の経済を立て直したのは朝鮮戦争だとよく言われますが、それ以前にはパープー人形などの玩具こそが主役だったと言っても過言ではありません。

 このパープー人形が、どうしてあれだけ売れたのか分からないと製造されていた方達自身が言われます。しかし少し考えてみますと理解できるような気がします。日本人はオリジナリティーに乏しいが真似は上手だ、と言われます。確かにそれは事実ですが、真似をする時に必ず元のものに改良を加えた上で、しかも安価に仕上げるということを忘れてはいけません。これは日本人が誇っていい特性です。

 パープー人形にも大いに発揮されました。派手な色の羽根をつける、棒からぶら下げるといった工夫は、それまで見られなかったものでした。そのため新し物好きのアメリカ人の好みと合致して爆発的なヒット作品となったのです。このパープー人形が骨董市などで売られている時には「ディートリッヒ人形」として売られている場合が多いようです。確かに羽根や棒を取り去ってしまうと映画「嘆きの天使」で有名な女優マレーネ・ディートリッヒに似ています。そのために「ディートリッヒ人形」となってしまったのでしょうが、実際は殆どが羽根や棒が無くなった、あるいは元から付ける前だったのが市場に流通したパープー人形です。

 このように戦後も順調に操業していましたセルロイド人形業界に大激震が起きます。アメリカで日本製セルロイド人形の可燃性が問題とされ危険なものだと言われたのです。その時に白木屋などの火事が問題とされました。日本としても対応に迫られ、遂に一九五四年(昭和二十九年)十一月二十七日の新聞に「伊勢丹はセルロイド製玩具は全部不燃性のものと取り替えました。安心して御求めください」という広告を掲載するに至りました。そして皮肉にもこれがセルロイド玩具の最後の広告となりました。そしてセルロイド玩具は業者自身の手で川原で焼却されました。そのときの写真が残されていますが、立ち上る黒煙がまるで髑髏のように見えるのが何とも印象的です。

 そして硬質塩ビ、軟質塩ビ、アセチロイドなどで作られるようになりました。この頃の玩具には「安全」とか「燃えない玩具」といったシールが貼られているものがあります。アメリカがどうしてこの時期になってセルロイド玩具の可燃性を問題にしたのかという理由は不明とされていますが、丁度塩ビの生産が本格化してきたのと、まだ根強かった反日意識によって日本製の玩具を排斥するために生まれたのではないかと思われます。

 こうして大打撃を受けましたがセルロイド人形の製作自体がストップしたわけではありません。東京のお酉様、大阪の十日夷などで売られています縁起物には鯛や猫などが付いていますが、それらのものは今でもセルロイド製のものが多く見られます。

 しかし御人形などは生産がストップしていましたが、平井玩具製作所が実に約半世紀ぶりに生産を再開しました。ミーコという名前の御人形は、ネット通販などで懐かしさと目新しさとをもって迎えられました。そしてたちまちのうちに人気商品となっていきました。このミーコ人形についての詳しいことは平井玩具製作所のホームページをご覧になってください。またそのページからはセルロイド人形がどのように製作されているかの動画も紹介されていますので、こちらのほうもご覧になってみてください。

 もし骨董市などでセルロイド人形を見かけられましたら、先ず手にとって見てください。その手触りの優しさと軽さとに驚かれるはずです。そして値段を聞いてみてください。でも「高い」といって驚かないでください。現在出回っていますようなプラスチック類は、ものによっては一キロ百円程度で手に入ります。でもセルロイドは一キロ四千円ほどもします。先ほどのミーコも大きさの割には高いと思われるかもしれませんが、それだけの値打ちはあります。高い安いは価格だけで決まるものではないのです。

 この魅力あるセルロイド人形の一日も早い復活が望まれてなりません。


連絡先: セルロイドライブラリ・メモワール
館長  岩井 薫生
電話 03(3585)8131
FAX  03(3588)1830



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