セルロイドサロン
第193回
松尾 和彦
セルロイドキューピーヒストリー

 
 1880年(明治十三年)アメリカにおいて特許番号235933、申請人ウィリアム・B・カーペンターに対する特許が認可されました。その内容はセルロイドを人形の素材とするというものでした。これが確認されるセルロイド人形の始まりです。
 1906年(明治三十九年)にはドイツのヨハネス・ダニエル・ケストナーが、セルロイドのテカテカした肌を人肌風に見せるためにアニリン塗料を塗布して落ち着かせる特許を取得しました。
 ケストナーは早くから大消費地であるアメリカに注目していて1893年(明治二十六年)にはシカゴに人形を売り物として出店し、商標登録、特許申請、総代理店を決め千人近い工員を抱えていました。
 こうして1910年(明治四十三年)にシアトルの展覧会でケストナーの人形が品質の良さを象徴し、上流階級向けの雑誌であった「レディース・ホーム・ジャーナル」においてギブソン・ドールという名前で特別扱いを受けるようになりました。
 この当時、ケストナーのセルロイド人形は五歳児の着る着物と同じ背丈で100ドル、裸の人形は小さいものでも16ドル以上もしました。当時とは物価も為替相場も違いますので一概には言えないのですが一万円を超えていたことは間違いありません。
 とにかくケストナーの成功によりセルロイド人形は大当たりをします。1912年(明治四十五年)に両手を曲げ前歯を二本生やしビーズの首輪をつけた人形が大当たりしたかと思うと、その翌年には大小様々なサイズのキューピー人形が馬鹿当たりしました。
 1912年はローズ・オニールがキューピーの特許を取得した年でもあり、発表したのも「レディース・ホーム・ジャーナル」でした。
そして1924年(大正十三年)になると本格的なオールセルロイド製の人形がアメリカとドイツで不動の地位を確立しました。まさにセルロイドキューピーの時代を迎えたわけです。
 キューピーと言えばローズ・オニールですが、手足となって働いたのはジョーゼフ・カルスであり、欧米での販路を拡大したのはボルグフェルト商会です。1881年(明治十四年)に設立されたボルグフェルト商会は、第一次大戦を挟んだ時期にヨーロッパで人気があるものをアメリカに、逆にアメリカで人気があるものはヨーロッパへと行き来させる商売を行っていましたが、中心となったのが日本で作られたキューピーです。
 ボルグフェルト商会はキューピーを母体として農民、消防夫、警官などを製作し、世界大戦をきっかけに欧米の兵士姿も登場させましたが、皮肉なことに一番よく売れたのは裸のキューピーでした。
 こうして欧米の家庭にヨハネス・ダニエル・ケストナーの頭文字であるJ・D・Kマークをつけたセルロイドキューピーが普及していきました。
 このようなセルロイドキューピーの全盛時代も各種プラスチックの登場や人形の多様化、生活様式の変化などにより収まりましたが、近年では形を変えてセルロイドキューピーが愛されるようになっています。キューピーはセルロイド製でなくても誰からも愛されるキャラクターですので、この傾向は今後も続くことでしょう。



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