セルロイドサロン
第206回
松尾 和彦
二つのバブルを再考する

  実態を伴わない好景気のことをバブル景気と呼びます。日本では昭和の終わりから平成の初めころのバブル景気こと第十一循環があまりにも有名です。

 このバブル景気なる言葉が生まれたのは意外に古く1720年の英国に遡ります。この年、南海泡沫事件が起きます。南海会社は英国で設立された南米大陸やその周辺と英国との貿易を独占する目的で1711年に設立された会社です。
 この会社は密貿易やスペインとの関係悪化、海難事故などにより窮地に追い込まれますが苦肉の策として発行した富くじが大当たりします。これによって金融機関へと変貌した南海会社はとてつもない計画を打ち出します。詳述はいたしませんが無限に株価が上昇を続け株主は大儲けし、会社は発展を続けるという計画でした。
 少し考えれば不可能だと分かる計画なのですが投機ブームが発生して一月に100ポンドであった株価は五月に700ポンド、六月には1000ポンド以上となります。南海会社に引っ張られる形で他社の株価も上昇します。どこかで聞いたような話ですね。
 こんなことが何時までも続くわけがありません。政府が沈静化に乗り出した結果、数ヶ月で暴落して元に戻り大損害を被った人々が続出します。これもどこかで聞いたような話ですね。この事件の裏には賄賂を貰っていた政治家がいたのですが真相は藪の中となってしまいました。ますます聞いたような話ですね。
 これがバブル景気の語源となった事件です。

 日本で起きたバブル景気は貨幣改鋳による元禄バブル、明治初めの頃のウサギバブルなどもありますが、やはりバブルと言えば第一次大戦当時の大正バブルと呼ばれる大戦景気と、昭和の終わりから平成の初めにかけての有名なバブル景気こと第十一循環ということになるでしょう。
 この二つのバブルを再考することといたしましょう。

 先ずは大正バブルからです。1914年(大正3年)7月28日にヨーロッパで起きたセルビア対オーストリアの戦闘は、直ぐに終息するとの大方の見方に反してドイツ、ロシア、イギリス、フランスなどのヨーロッパ諸国は言うに及ばず、オスマントルコ、カナダ、ニュージーランドなども参戦するという、それまでの歴史では存在しなかった世界大戦に発展しました。
 日本も日英同盟の関係からイギリス側すなわち連合国側の一員として、ドイツ、オーストリア、オスマントルコ、ブルガリアの同盟国側と戦うことになります。
 日本は日露戦争後に景気が落ち込み、遂に1909年(明治42年)には「このままでは5年後に完全に経済が破綻してしまい立ち上がることが出来なくなる」との予想をしたほどでした。その後の努力により破綻は回避できある程度の成長はしていたのですが、国際収支は常に赤字でした。
 そこに起きた戦争により為替相場は混乱し、海上輸送が困難になったことから一時的な恐慌となり、日本では重要な輸出品であった繭の価格が暴落します。ところが翌年の後半頃から空前の好景気に転じました。長引く戦争によって交戦国の在庫は尽きてしまいました。戦争は大量消費ですからどこかから求めないといけません。そのため戦場となっていない日本に注文が殺到したわけです。ヨーロッパだけではありません。アジア・アフリカからもヨーロッパの商品が消えたために日本に注文します。さらに中立国であったアメリカも好景気となったために対米輸出が急増します。加えて当時は、まだ未開拓だったオーストラリア・南米向けへの貿易も活発化しました。つまり世界中総ての国に輸出するようになったのです。

 単位
(万円) 
 中国   アメリカ   総計   収支
 
 輸出  輸入  輸出  輸入  輸出  輸入
 1913年  15,466 6,122  18,447 12,241  63,246 72,943  9,697
 1917年  31,838  13,327  47,854  35,971  160,301  103,581  56,720
 1920年  41,027  32,210  56,502  87,318  194,840  233,618  38,778

 上記の表にあるように戦争前の1913年(大正2年)に9,697万円の輸入超過だったのが、戦争中には5億6,720万円の輸出超過となり、戦争が終わってしまうと3億8,778万円の輸入超過となっています。
 これだけではありません。海運業界が大活況となります。船のチャーター料金がトン当たり3円程だったのが40円を超え、船そのものの建造費はトン当たり50円から1,000円になりました。そのため日本郵船は484万円から8,631万円に純益を伸ばし、11割の配当を行っています。さらに凄いのが内田信也で1隻から始めたのが16隻となり資産は7,000万円、須磨に5,000坪の大豪邸を建てて60割の配当を行っています。山本唯三郎は同志社に8万円、勝田銀次郎は青山学院に31万円を寄付、山下亀三郎は山下実科高等女学校(現愛媛県立吉田高校)、第二山下実科高等女学校(現愛媛県立三瓶高校)を設立するなど、船成金の勢いは目覚ましいものがありました。彼らの船賃などの貿易外収支は貿易黒字に匹敵するものがありました。

 しかしこのような好景気はどこかに歪を生じるものです。都市部にはスラムが形成され、インフレと需要超過によって物価は高騰、それでいて給与は上がるどころか下がる有様で成金職工と言われた造船労働者でさえ平均すると47%も低下しました。もっとひどいのが公務員で妻が内職しても足らず民間に転職するものが相次ぎます。教員はバタバタと結核に倒れ、警官は生活苦を訴えて嘆願書を提出、河上肇の「貧乏物語」がベストセラーとなりました。
 そして決定的な事態となります。戦争が終わったのです。これにより一時的に景気が沈静化したのですが、ヨーロッパの復興は容易ではない、アメリカの好景気が続く、中国向けの貿易も好調だなどと判断したことから、大戦中以上の好景気となります。そのため、こちらこそ大正バブルだとする専門家もいるほどです。
 しかしヨーロッパの復興は意外に早く輸出が不振になります。過剰生産だったために株価は三分の一となりました。前述の山本唯三郎はあっという間に全財産を使い果たして五十四歳で急死、勝田銀次郎も窮地に追い込まれる、三井物産・大倉組と並ぶ大手商社であった高田商会は破綻。こうなると財閥を支えていた銀行はたまったものではありません。たちまちのうちに21もの銀行が休業に追い込まれ、取り付け騒ぎに至っては169行にも及んでいます。その中には横浜の第七十四国立銀行、福井の第九十一国立銀行のように大手有力銀行もありました。事態をややこしくしたのが企業の粉飾決算と銀行の不良債権隠しで、拡大長期化させることとなりました。今と同じですね。
 その中で上手く立ち回ったのが内田信也で自社株を売り抜けて政治家に転身しています。その背後には大量に政治資金を貰っていた政治家達からの入れ知恵があったことは言うまでもありません。これも今と同じですね。
 この後には金融恐慌、世界同時不況、農業恐慌などが続いた後に満州事変、日中戦争、第二次世界大戦と戦争、戦争の時代が続くこととなります。

 もう一つのバブル景気は、まだ記憶に新しい昭和の終わりから平成にかけての第十一循環です。1985年(昭和60年)のプラザ合意以前の日本は「円高不況」と呼ばれる不景気の真っただ中にいました。その為、ドル安に導こうとしたのですが合意発表からの一日だけで対ドルレートは235円から20円下落、一年でドルの価値は約半分となりました。こうなるとより深刻な「円高不況」となることが予想されます。その為、公定歩合を引き下げることなく5%のまま高目放置しました。また無担保コールレートを引き上げました。それによってインフレ率は低下します。また円高で円が強くなったかのような錯覚を起こしたために不動産や株式に投資するようになります。そして何よりも海外への投資が盛んとなりました。いよいよバブル経済の始まりです。
 このような事態が起きると予想していた経済学者、金融の専門家などは殆どいませんでした。バブル景気だと指摘した人に至っては皆無だったと言ってもいいでしょう。
 今まで土地取引や株式投資に無縁だった人々が手を出す、会社は本業を忘れて取り組むで土地や株は急騰に次ぐ急騰、山手線の内側だけでアメリカが買える、いっそアフリカの国を一つ丸々買ってそこの王様となるか、などという時代になります。
 就職戦線は一度に2,000人がディスコで入社式を行う、面接を行ったその場で内定が出る、内定者確保のためにホテルに泊まらせるで、完全な売り手市場となります。
 株価は遂に40,000円近くに達することとなり、証券会社や経済評論家は50,000円になる、いや70,000円だ、100,000超えも夢ではないと煽り立てる始末で、このバブル景気が崩壊するなどと予想していた人は殆どいませんでした。
 その後が、どのようになったかは皆様がご存知の通りです。

 このようなバブル景気が質の悪いことは
1.バブル景気が来ると予想できないこと
2.始まるのが予想できないくらいだから終わるのも予想できないこと
3.終わってからでないとバブルだと気が付かないこと
4.後に大きな後遺症を遺すこと
 が挙げられます。
 今、日本の景気は失われた二十年も過ぎてアベノミクスによって、少し持ち直し気味にありますが、もしかしたらこれもバブルだったと言われるかもしれません。またオリンピックが開かれるのも不安材料です。何故なら、これまでオリンピックを開いた国は必ず不景気になったり内戦状態になったりしているからです。

 この二つのバブルがセルロイド産業に与えた影響ですが、昭和の終わりから平成の初めの頃のバブルには、それほどの影響を受けていませんが、大正時代のものには大きく動かされています。それにつきましてはサロン8、65、90、100、120、167、199などに書いておりますので興味を持たれましたらご一読いただきたいと思います。

 今後、日本の経済にバブルのような大きな混乱がないことを祈ります。


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