セルロイドサロン | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第206回 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松尾 和彦 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
二つのバブルを再考する | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
実態を伴わない好景気のことをバブル景気と呼びます。日本では昭和の終わりから平成の初めころのバブル景気こと第十一循環があまりにも有名です。
上記の表にあるように戦争前の1913年(大正2年)に9,697万円の輸入超過だったのが、戦争中には5億6,720万円の輸出超過となり、戦争が終わってしまうと3億8,778万円の輸入超過となっています。 これだけではありません。海運業界が大活況となります。船のチャーター料金がトン当たり3円程だったのが40円を超え、船そのものの建造費はトン当たり50円から1,000円になりました。そのため日本郵船は484万円から8,631万円に純益を伸ばし、11割の配当を行っています。さらに凄いのが内田信也で1隻から始めたのが16隻となり資産は7,000万円、須磨に5,000坪の大豪邸を建てて60割の配当を行っています。山本唯三郎は同志社に8万円、勝田銀次郎は青山学院に31万円を寄付、山下亀三郎は山下実科高等女学校(現愛媛県立吉田高校)、第二山下実科高等女学校(現愛媛県立三瓶高校)を設立するなど、船成金の勢いは目覚ましいものがありました。彼らの船賃などの貿易外収支は貿易黒字に匹敵するものがありました。 しかしこのような好景気はどこかに歪を生じるものです。都市部にはスラムが形成され、インフレと需要超過によって物価は高騰、それでいて給与は上がるどころか下がる有様で成金職工と言われた造船労働者でさえ平均すると47%も低下しました。もっとひどいのが公務員で妻が内職しても足らず民間に転職するものが相次ぎます。教員はバタバタと結核に倒れ、警官は生活苦を訴えて嘆願書を提出、河上肇の「貧乏物語」がベストセラーとなりました。 そして決定的な事態となります。戦争が終わったのです。これにより一時的に景気が沈静化したのですが、ヨーロッパの復興は容易ではない、アメリカの好景気が続く、中国向けの貿易も好調だなどと判断したことから、大戦中以上の好景気となります。そのため、こちらこそ大正バブルだとする専門家もいるほどです。 しかしヨーロッパの復興は意外に早く輸出が不振になります。過剰生産だったために株価は三分の一となりました。前述の山本唯三郎はあっという間に全財産を使い果たして五十四歳で急死、勝田銀次郎も窮地に追い込まれる、三井物産・大倉組と並ぶ大手商社であった高田商会は破綻。こうなると財閥を支えていた銀行はたまったものではありません。たちまちのうちに21もの銀行が休業に追い込まれ、取り付け騒ぎに至っては169行にも及んでいます。その中には横浜の第七十四国立銀行、福井の第九十一国立銀行のように大手有力銀行もありました。事態をややこしくしたのが企業の粉飾決算と銀行の不良債権隠しで、拡大長期化させることとなりました。今と同じですね。 その中で上手く立ち回ったのが内田信也で自社株を売り抜けて政治家に転身しています。その背後には大量に政治資金を貰っていた政治家達からの入れ知恵があったことは言うまでもありません。これも今と同じですね。 この後には金融恐慌、世界同時不況、農業恐慌などが続いた後に満州事変、日中戦争、第二次世界大戦と戦争、戦争の時代が続くこととなります。 もう一つのバブル景気は、まだ記憶に新しい昭和の終わりから平成にかけての第十一循環です。1985年(昭和60年)のプラザ合意以前の日本は「円高不況」と呼ばれる不景気の真っただ中にいました。その為、ドル安に導こうとしたのですが合意発表からの一日だけで対ドルレートは235円から20円下落、一年でドルの価値は約半分となりました。こうなるとより深刻な「円高不況」となることが予想されます。その為、公定歩合を引き下げることなく5%のまま高目放置しました。また無担保コールレートを引き上げました。それによってインフレ率は低下します。また円高で円が強くなったかのような錯覚を起こしたために不動産や株式に投資するようになります。そして何よりも海外への投資が盛んとなりました。いよいよバブル経済の始まりです。 このような事態が起きると予想していた経済学者、金融の専門家などは殆どいませんでした。バブル景気だと指摘した人に至っては皆無だったと言ってもいいでしょう。 今まで土地取引や株式投資に無縁だった人々が手を出す、会社は本業を忘れて取り組むで土地や株は急騰に次ぐ急騰、山手線の内側だけでアメリカが買える、いっそアフリカの国を一つ丸々買ってそこの王様となるか、などという時代になります。 就職戦線は一度に2,000人がディスコで入社式を行う、面接を行ったその場で内定が出る、内定者確保のためにホテルに泊まらせるで、完全な売り手市場となります。 株価は遂に40,000円近くに達することとなり、証券会社や経済評論家は50,000円になる、いや70,000円だ、100,000超えも夢ではないと煽り立てる始末で、このバブル景気が崩壊するなどと予想していた人は殆どいませんでした。 その後が、どのようになったかは皆様がご存知の通りです。 このようなバブル景気が質の悪いことは 1.バブル景気が来ると予想できないこと 2.始まるのが予想できないくらいだから終わるのも予想できないこと 3.終わってからでないとバブルだと気が付かないこと 4.後に大きな後遺症を遺すこと が挙げられます。 今、日本の景気は失われた二十年も過ぎてアベノミクスによって、少し持ち直し気味にありますが、もしかしたらこれもバブルだったと言われるかもしれません。またオリンピックが開かれるのも不安材料です。何故なら、これまでオリンピックを開いた国は必ず不景気になったり内戦状態になったりしているからです。 この二つのバブルがセルロイド産業に与えた影響ですが、昭和の終わりから平成の初めの頃のバブルには、それほどの影響を受けていませんが、大正時代のものには大きく動かされています。それにつきましてはサロン8、65、90、100、120、167、199などに書いておりますので興味を持たれましたらご一読いただきたいと思います。 今後、日本の経済にバブルのような大きな混乱がないことを祈ります。 |
セルロイドサロンの記事およびセルロイドライブラリ・メモワールハウスのサイトのコンテンツ情報等に関する法律的権利はすべてセルロイドライブラリ・メモワールハウスに帰属します。 許可なく転載、無断使用等はお断りいたします。コンタクトは当館の知的所有権担当がお伺いします。 (電話03-3585-8131) |
連絡先: | セルロイドライブラリ・メモワール 館長 岩井 薫生 電話 03(3585)8131 FAX 03(3588)1830 |
copyright 2017, Celluloid Library Memoir House