セルロイドサロン
第207回
松尾 和彦
鈴木商店を再考する

 世界三大倒産をご存知でしょうか。それはスウェーデンのマッチ王イーヴァル・クルーガーのクルーガーコンツェルン、ドイツ最大の財閥であったシュティンネス・コンツェルン、そしてこのサロンでお馴染みの鈴木商店の倒産です。今回は鈴木商店を再考してみることといたしましょう。
 しかしその前に他の二つを少しばかり見ることにしましょう。

 元素記号、服・カバン・財布などのファスナー、ボルトを締めるモンキーレンチ、心臓のペースメーカー、人工透析、自動車のシートベルト、パソコンのマウス、これらの共通点はスウェーデンで発明されたということです。流石はノーベルの国ですね。
 この他にも安全マッチがあります。マッチ自体は1830年にフランスのソーリアが発明したのですが、黄燐マッチであったために自然発火することも多く、また猛毒の黄燐を使っているために健康被害の問題もありました。そこで赤燐や硫黄を使用した安全マッチが生まれたわけです。
 イーヴァル・クルーガーはマッチ製造業者の家の生まれですが、アメリカに留学して建築を勉強してきたように家業に熱心ではありませんでした。父や弟が経営していたマッチ会社は経営的窮乏に瀕していました。そこで生産、管理、販売の方法を改めて遂には世界の75%を生産するというマッチ王となりました。
 マッチだけでなくパルプ、ボールベアリング、鉱山、鉄道などの巨大コンツェルンとなっただけでなく、各国へのクルーガーグループの総融資額は1930年時点で3億8,700万米ドルという巨大なものでした。為替レートが違いますので単純比較は出来ないのですが、現在ならば3兆円を超えるでしょう。
 ところがスウェーデンが通貨危機となります。さらにクルーガーコンツェルンの危機説が流れます。この危機を逃れるためにアメリカに滞在中だったクルーガーは帰国しようとしますが、途中のフランスで死体となって発見されます。公式発表は拳銃自殺ですが、不自然な点が幾つもあるという謎の死でした。
 絶対的な存在を失ったクルーガーコンツェルンは、その後破産してしまいますが資産の多くが存在しないものでした。砂上の楼閣どころか空中の楼閣だったのです。

 ではドイツのシュティンネス・コンツェルンはどうだったのでしょうか。
 ドイツ最大の工業地帯と言えばエッセン、ドルトムント、デュッセルドルフなどのルール工業地帯ですが、1893年に会社を興したシュティンネス・コンツェルンは石炭、鉄鉱を中心に通運、石油、製紙、電力、新聞などありとあらゆる産業を手中にするドイツ最大のコンツェルンでした。中心人物のヒューゴ・シュティンネスは労使協立を図り国会議員も務めました。
 ドイツは先進国、工業国のように思われていますが、150年ほど前まではイタリアとともにヨーロッパの後進国でした。原因は長く続いた内乱です。そのためナポレオンに占領されたり、国家が分裂したりしていました。統一ドイツが出来たのは1871年のことでした。この遅れを取り戻すために日本の富国強兵政策に似た、というよりも日本が手本とした政策を行いました。その中で工業地帯として発展したのが豊富な石炭を産するルール地方だったのです。
 このドイツ最大の工業地帯を手中にしたシュティンネス・コンツェルンが、どれくらいの存在だったかというと三井、三菱、そして今回のメーンテーマである鈴木商店を合わせたよりも大きいものがあった、と言えばその巨大さが分かります。中でも石炭の73%、鉄鋼の83%を占めていました。
 これほどの会社が倒産に追い込まれたのはフランス、ベルギーによるルール占領です。第一次大戦の賠償金を支払わないことに業を煮やした両国が7個師団もの兵隊を動員して占領してしまったのです。最大の工業地帯を占領されたドイツの経済は大打撃を受けます。悪いことに中心人物のヒューゴ・シュティンネスが急死します。こちらもイーヴァル・クルーガーと同じように疑問点の多いものだったと言われていますが、真相は分かりません。そしてドイツ最大のコンツェルンは倒産に追い込まれます。

 前置きが長くなりましたが、今回のテーマである鈴木商店の話に移りましょう。
 鈴木商店の前身である「辰巳屋」(商標はかね辰)が暖簾分けという形で神戸弁天浜に砂糖取引の店を開いたのは1874年(明治7年)でした。21歳の金子直吉が鈴木商店に入社したのは1886年(明治19年)のことで、当時既に神戸八大有力貿易商の一つに数えられていました。前年には鈴木商店を支えた車の両輪とも言える柳田富士松も入社しています。樟脳の金子、砂糖の柳田この二人によって鈴木商店は神戸の鈴木から世界の鈴木へと変身していきます。
 1917年(大正6年)に鈴木商店が記録した売り上げは15億4千万円で、三井物産の10億9500万円を大きく凌いでいます。この数字が如何に凄いかというと同年の国家予算が10億8千万円だったのを見れば分かります。経済規模も貨幣価値も違いますので単純比較はできないのですが、現在の三井物産は約10兆円の売り上げを記録していますので、鈴木商店の巨大さが分かります。
 これほどの会社ですから流れを組む会社も多く神戸製鋼、帝人、Jオイルミルズ、サッポロビール、太平洋セメント、IHI、ニチリン、日本化薬、双日など誰もが知っている名前が並びます。これだけで先のクルーガー、シュティンネスの両者に負けないコンツェルンが出来ますね。
 鈴木商店がこれほどまでに発展した理由の中で最大のものは言うまでもなく第一次大戦です。この時に金子直吉が「金に糸目をつけず、ありったけの鉄、物資を買え」とロンドン支店に電報を打ちます。当時は鉄不足でしたが、アメリカ向けに完成した船と交換に鉄で支払いを受けるというバーターのような取引で巨利を得ます。この時に鈴木商店が得た鉄の量は分かりませんが、松方幸次郎の川崎造船が百万トン近くの船を建造しましたが、そのほとんどを賄ったともいわれています。
 こうして大発展をした鈴木商店が僅か十年後に破綻に追い込まれたのは、戦後の不況、特に船舶不況です。第一次大戦後は長く続いた戦争に対する反省の点からワシントン(1922年)、ロンドン(1930年)の両軍縮条約が結ばれました。これによって船舶不況となり船成金が窮地に追い込まれました。鈴木商店が破綻したのは、まさにこの両条約の中間である1927年4月2日です。
 会社が破綻に追い込まれるのは過去の成功体験が忘れられないからだ、とよく言われます。確かにこの三社は何れも振り向けばすぐそこに成功体験があります。だからこその失敗です。
このような例はこれから先も続くことでしょう。経営者に限らず誰もが成功ではなく失敗こそ宝として貰いたいものです。

 最後に、その後の金子直吉を見てみることといたしましょう。鈴木商店を潰したのは自分の責任だと感じた金子は、太陽曹達で再起を図ります。鈴木商店を支えた車の両輪の一人柳田富士松は破綻の翌年に61歳で亡くなりました。金子は太陽曹達でも商才を発揮して一時は神戸製鋼所をはじめとして二十社以上を傘下に納めます。この時に帝人の株を買い戻そうとして以前に手放した22万株のうち11万株を買い戻します。その後、帝人が増資したために株価が大きく上がります。この過程に贈収賄があるとしたのが、帝人のライバル鐘紡の武藤山治です。そして帝人の社長ら16名が起訴され時の斎藤内閣が倒れるという大事件となりました。
 この事件はリベラル的な斎藤内閣を嫌った平沼騏一郎が仕掛けたものだと言われています。平沼はファシズム的性格が嫌われて首相候補になれないのを逆恨みしていました。武藤は実業同志会の国会議員でもあり時事新報を発行していましたが、朝日新聞の東京進出に危機感を持っていました。
 そのためにこの両者が仕組んだと言われますが、武藤が書生とともに射殺されて真相は藪の中となりました。また武藤を暗殺した犯人もその場で自殺したのですが、体内から摘出された弾丸が持っていた拳銃と異なるものでした。こういう疑惑事件に絡む暗殺事件は何時も謎だらけですね。
 その後も頑張り続けた金子らの働きがあって鈴木商店は、1933年に債務を弁済して整理会社は解散しました。さらに北海道や南洋の開拓を推し進めようとした金子は、生涯借家住まいで1944年2月27日に79歳で亡くなった時の遺産は僅か十円でした。このような態度を今の政治家、実業家に見習ってもらいたいものです。


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