セルロイドサロン
第209回
松尾 和彦
財閥は何故セルロイドに注目したか

 1909年(明治41年)、三井・三菱の両財閥が堺(大阪府)と網干(兵庫県)に堺セルロイド、日本セルロイド人造絹糸を設立したことはよく知られています。この二つの計画は同時進行であったので互いに話し合ったと思われる方もおられるかと思いますが、実際には別々に進められたものです。
 ではどうして財閥は新興産業であったセルロイドに注目したのでしょうか。今回は、その話を進めていくこととしますが、触れる前に少しセルロイドに関係した財閥の話をすることといたします。

 先ずは三井財閥からです。東京の街を歩いていると「昔はこの辺りに三井様の屋敷があってな」という話をよく聞きます。
 それはどうしてかというと三井家は男系が六家、女系が五家と合わせて十一もの系統があったのです。住んでいた場所から伊皿子家、小石川家、一本松町家などと名乗ったり、公家風に北家、南家と名乗ったりして互いに婚姻を結んだり、他の名家と親戚になったりしたので、三井家は実に多くの人物と姻戚関係にあります。例えばセメント財閥とも言われる浅野財閥の浅野八郎、トヨタ自動車の豊田章一郎、テレビプロデューサー井原高忠、日本女子大の広岡浅子などは何れも三井家の縁者です。
 そういった人たちの屋敷が東京のそこここにあったものですから「昔はこの辺りに三井様の屋敷があってな」となるのです。で、本家はどこに屋敷があったのかというと綱坂のところにある三井倶楽部、ここが本家でした。
 また社員にも有能な人材が多く鐘紡社長の武藤山治、ビール王馬越恭平、製紙王で慶応大学に工学部を作ったことでも知られる藤原銀次郎、国鉄総裁石田礼次郎らは何れも三井の社員でした。このようなことから「人の三井」とも呼ばれています。
 三井は歴史のある財閥なので関係のある会社も多く、三井と名前がついていないものでも東レ、東芝、東洋高圧、富士フイルム、王子製紙、サッポロビールなどは何れも三井系の会社です。

 対する三菱財閥は岩崎弥太郎が明治維新後に三隻の船から始めた新興財閥で西南戦争によって大発展しました。岩崎弥太郎は1885年(明治18年)に50歳という若さで没しましたが、後を継いだ弟の弥之助、三菱四天王こと豊川良平、近藤廉平、装田平五郎、末信道成によって「海から陸へ」方向転換をして大発展します。このようなことから「組織の三菱」とも呼ばれています。また岩崎弥太郎から弥之助、久弥、小弥太と同族に継がれていったことから三井の「番頭政治」に対して「独裁政治」とも呼ばれています。
 三菱の名前がついていないものでは旭硝子、ニコン、キリンホールディングスなどがあります。
 で、面白いことに「三菱鉛筆」は全く三菱財閥と関係がありません。有名なスリーダイヤマークですが、「三菱鉛筆」が商標登録したのが1903年(明治26年)であったのに対して、「三菱財閥」は1914年(大正3年)と鉛筆のほうが早かったのです。戦後、財閥解体を命じたGHQも、この事実に気が付かず「三菱鉛筆」に商標使用禁止を通告したために、鉛筆側から反論されて撤回しています。

 三井、三菱と来ましたので住友財閥についても見ることといたしましょう。実は住友財閥は400年以上の歴史を誇る世界最古の財閥なのです。住友は元々銅精錬から出発した金属主体の事業を行っていました。ところが明治維新の時に主体の別子銅山を差し押さえられそうになったことから、多角経営に移りました。「結束の住友」と呼ばれるように結束力が強くグループの会社が窮地に陥ると救いの手を差し伸べています。
 グループの中で住友の名前がついていないものでは日新電機、明電舎、日本板硝子などがあります。

 話を本題に戻しましょう。三井、三菱の両財閥が何故新興産業であったセルロイドに注目したかというと、化学工業であったからです。明治維新以来、八幡製鉄所に代表される重工業、富岡製糸場に代表される軽工業で殖産を図ったことはよく知られています。
 中でも生糸紡績は明治末年に当たる1912年の時点で50%以上を占めていました。これに対して化学工業は10%弱でした。それなら生糸紡績に力を入れたらいいのではないかと思いますが、生糸木綿等の自然繊維工業は製品自体に科学的操作を加える余地がありません。また産業の米と呼ばれる鉄も合金を作ることはありますが、何処まで行っても鉄です。
 それに対して化学工業は文字通り様々なものに化けます。セルロイドだって紙、樟脳、硝酸、硫酸、アルコールから化けたものです。このように化学工業は、考えもつかない新物質が生まれる産業です。だからこそ面白いし可能性があります。生糸の用途や製品が10倍になることはあっても100倍にはならないでしょう。ところが化学工業では100倍にも1000倍にもなるでしよう。事実、セルロイドはハイアットが発明してから大発展を続け25,000種以上の製品が生まれています。セルロイドの座を奪ったと言われる各種プラスチックとなると、もっと多いでしょう。当然、儲けも大きいものがあります。財閥が黙っているわけがありません。

 また日本の産業は封建的風土がありました。例えば農業では小作人が地主として出来た米を納めていました。工業でも繊維関係では女工哀史のように資本家が労働者を酷使するという構図がありました。
 セルロイドにおいては家内工業的な零細加工業者と、近代的大資本の生地製造業者とから成り立っていました。この弱点を改善していく必要がありました。先人たちが努力したのはまさにここです。
 日本人は改善が好きです。個人だけではなく会社も同じで改善を提案した社員に賞金を与える会社は珍しくありません。財閥も改善が好きです。そして改善の幅は既存のものよりも未知のほうが大きいものがあります。この点においても未知の産業であったセルロイドに財閥が注目した理由があります。

 このように時を同じくして二大財閥がセルロイドに注目したのは、偶然ではなく必然的なものだったのです。人間は同じ頃に同じようなことを考えます。例えば細胞の発見、酸素の発見、アルミニウムの製法の発明、電話の発明などは同じ頃に全く別の人物が同じようなことを考え出しました。これも単なる偶然ではなくて、必然だったのです。同じようなことはこれから先も起きることでしょう。


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