セルロイドの主要原料の一つが樟脳であること、主生産地の台湾が日本領となったことからセルロイド産業の発展につながったことなどは、これまでもお話ししてきたとおりです。
今回は樟脳と住友財閥との関わりについて述べることとしましょう。
樟脳というとお馴染みの鈴木商店だと思われることでしょう。ところが鈴木商店の樟脳事業は住友財閥が売却したものなのです。明治期までは樟脳と言えば住友財閥だったのです。
樟脳は古くから薬の原料として知られた存在で、鎖国制度が確立された寛永年間(1624〜44)でさえ既に一万斤(四千Kg)程度の輸出があったと記録されています。江戸時代には重要な輸出品で銅に次いで二位でした。もちろん鎖国していた時代でしたので輸出先はオランダと清国に限られていました。
この頃の樟脳は粗製樟脳でオランダのアムステルダムに送られて精製された後に世界の各地に独占的に輸出されて、オランダ商人が巨額の利益を得ていました。
明治になっても、このような状況は変わらずアムステルダムに代わって精製樟脳の中心地となっていたドイツのハンブルグから世界に送られていました。その頃の粗製樟脳の価格は100斤(60Kg)当10円だったのに対して、精製樟脳はロンドンで1ポンド(0.453Kg)当10円と、実に130倍の高値で取引されていました。
日本でも宮崎の松田茂太郎、高知の大野和吉といった樟脳の精製を試みる人が次々に現れました。
松田は品川弥二郎、後藤象二郎、北垣国道らの庇護を受けて樟脳精製の研究に没頭しますが、そのうち後藤、北垣から住友財閥の広瀬宰平、伊庭貞剛を紹介されます。住友家は神戸支店で樟脳を取り扱った経験があり、日本の特産品である樟脳事業に乗り出すこととなります。
1888年(明治二十一年)に住友入りした松田は研究を続け、住友家も松田の意見を容れて神戸葺合村に精製樟脳工場を建設します。この工場は最初のうちは失敗続きでしたが、経験を積むとともに外国留学を行ったりしているうちに技術力が向上してアメリカをはじめとする各国に輸出するようになります。1892年(明治二十五年)の精製樟脳の売り上げは55,678ポンド、利益は1053円96銭を記録します。翌年以後も好調が続きましたが、樟樹の乱伐によって原料不足が心配される事態となります。
ところがそこで起きた日清戦争によって台湾が日本領になったことで樟脳業界は救われます。それまでの台湾樟脳は精製方が粗雑であった上に販売権がドイツに独占されていて
樟樹の最大産地でありながら資源枯渇が懸念されていました。その為、民政長官の後藤新平が専売制を実施しました。この制度は1962年(昭和三十七年)に廃止されるまで続きました。
この頃、住友家に大変な惨事が起きます。主力の銅鉱山である別子で暴風雨による山崩れのために584名もの尊い命が失われます。設備の被害も莫大で復旧のために膨大な出費を強いられます。加えて北清事変によって全輸出高の30%を占めていた対清貿易が途絶してしまいます。
このような窮状に追い込まれた住友家は基幹事業の銅産品以外の切り捨てを行おうと考えるようになり、製脳工場、機器等の設備、並びに登録商標の使用権等を鈴木商店に譲渡して1903年(明治三十六年)5月30日に樟脳精製事業から手を引き、翌月には輸出販売業務も停止して樟脳から完全に撤退しました。その後、鈴木商店が樟脳並びにセルロイド事業と密接に関わりあってきたのはこれまでも述べてきたとおりです。
住友の神戸工場は日本樟脳(株)の主力工場となり、空襲にも耐えて赤煉瓦の雄姿を見せていましたが、神戸市中央区の新庁舎建設予定地となり1979年(昭和五十四年)に取り壊されてしまいました。
このように樟脳と言えば鈴木商店と思ってしまいますが、その繁栄は住友財閥が築いた基礎の上に成り立ったものだったのです。
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