セルロイドサロン
第23回
太陽刷子(株)
取締役会長 小倉 吉三
セルロイドと歯ブラシ

 この度、「セルロイドと歯ブラシ」というテーマにつきまして執筆を行いますようにとのご依頼を受けまして一文を認めることとなりました。

 私どもの会社ですが、滋賀県野洲で一八八四年(明治十七年)に生を受けました先代の五四郎が、当時の義務教育でした小学校四年を終了後に大阪の雑貨問屋でセルロイドも扱っていました杉田商店に勤めましてマネージャーになりました後に一九二三年(大正十二年)に合資会社小倉商店と名乗り独立いたしました。

 その頃の情勢ですが、セルロイド歯ブラシの製造が一九一五年(大正四年)から始まりました。奇しくも私はその年のクリスマスに誕生いたしましたので、本年(二○○五年)に九十歳となります。九十二歳まで生きました先代に近づきつつあるところです。

 そして一九一八年(大正七年)に歯ブラシ専門の輸出検査が始まりました。主に大阪府方面で生産していましたので、一九二七年(昭和二年)には大阪府の重要輸出品となりました。

 私どもの会社は、当時バンザイ歯ブラシと言っていましたライオン歯ブラシ様の協力工場となりました。「ライオン」の商標も私どもが持っていましたのを譲ったものです。 その頃、歯ブラシの柄はオーストラリアから輸入していた牛骨を削って重慶産の豚毛を植毛していました。そのような手間を掛けていましたので一本が二十五銭でした。それに対してセルロイド歯ブラシは七〜十銭でした。当時、煙草のバットが七銭、チェリーが十銭という時代ですので、どれぐらいの金額であったかがお分かりいただけると思います。

 歯ブラシは最初手植えをしていましたので一日に一人当二十本程度の生産量でしたが、一九二○〜二五年にかけまして大正式と呼ばれる器械が完成しましたために一人千本の生産が可能になりました。この器械の研究は主に辻村氏があたり、大島氏と私小倉が資金を提供いたしました。

 戦争中には主に軍用の再製ブラシを製造していましたが、戦後の一九四六年(昭和二十一年)に株式会社化いたしまして現在の社名を名乗るようになりました。

 その頃は闇の横流しを行いますと儲けが出ていた時代でしたが、「人に迷惑をかけない」「人のためになることをする」というのが先代の信条でしたので、損をしながらも生産を続けていました。

 そのようなことを行っていました時に一九四八年(昭和二十三年)に工場が全焼してしまいましたが、ダイセル様は借金の返済を延期してくれる、ライオン様は工場の敷地を提供してくれるでニヶ月後には再開することが出来ました。

 このようにライオン様とは常に協力関係にありましたので、一歩先を行く必要がありました。そのために自動毛切器(一九六六年=昭和四十一年)、自動毛先丸め器(一九七四年=昭和四十九年)、自動植毛挿入排出器(一九八一年=昭和五十六年)、マイコン制御ブラシ植毛器(一九八三年=昭和五十八年)とライオン様に先駆けまして、機械の開発を行ってまいりました。

 それではセルロイド歯ブラシの加工につきまして述べることといたします。

一. ダイセル様から六ミリの生地を購入する
ダイセル様から購入していましたセルロイド生地は主に琥珀とパステルで、初期には堺から直接購入していたのですが、そのうち今里に代理店が出来ましたのでそちらから購入するようになりました。
注文から実際に納入していただくまで三ヶ月ぐらいかかりました。

二. 真鍮の型に入れて切っていく
セルロイドの平板を両側から挟んで加熱して押し出すようにして切断します。その頃は一度に二つずつ取るやり方が多かったです。 その後、電動パフで磨いてガラをかけるようになりました。さらに艶パフをかけます。

三. 穴あけを行う
穴あけはドリルを使って一つずつ開けていき、一列目が終わりましたら機械のほうが動いて次の列の穴あけを行っていきます。
その後に刻印を電熱で加熱して押印していきました。

四. 植毛を行う
歯ブラシの毛にはナイロンを使うこともありましたが、ライオン様では豚毛を使用していました。この豚毛にも色々ありまして、日本産は色は良いのですが弱いという欠点がありました。その中でも最高級品とされたのが重慶産のものです。これを刈ると弱くなりますので抜いたものを植毛していました。主に白毛を歯ブラシ用、黒毛を刷毛用としていたのですが、重慶産と湖南産とを混ぜ合わせたりしていました。
植毛は手植えで行っていました時代には歯ブラシの裏側に溝があって、毛を通した後に粘着材で留めていました。これが機械化されるようになりますと真鍮と一緒に毛束を打ち込むようにいたしました。
機械化にあたりまして苦労しましたのが植毛をいかに滑らせるかということでした。

 この後、毛のカッティングを行いますが、かつてはちょうど船の底のように真ん中を低くしていたのですが、一九七五年(昭和五十年)頃よりローリングブラシといいましてプラットなものに変わっていきました。

 さらに毛先を丸めていきますが、これも当社が先駆けて機械化を行いました。

 そして植毛の機械化によって一日に一人二十本程度生産していましたのが、千本となりました。その頃は最盛期に月産三百万〜三百五十万本の生産を行っていました。

 これは日本の生産量の一割に相当する数字です。その当時、当社が協力工場となっていましたライオン様が全国シェアーの四十〜四十五パーセントを占めていました。

 またロシアの軍隊用として二千万本を六ヶ月で生産したこともあります。この際は多くの同業者にご協力をいただき完納出来ましたことを感謝しております。このロシアの軍隊の特徴としては豚毛でないといけないということでしたが、ナイロンも使用しました。
ただしナイロンを使用する場合には人体に無害であるとの証明書をつける必要がありました。

 この歯ブラシに対する各国の要求ですが、ヨーロッパではブラシのハンドルそのものが大きくて毛植えの列が五〜六列あり、しかも硬いものが好まれました。これに対してアメリカではスマートなものが使われました。中国では日本と大体同じでした。

 歯ブラシの柄にセルロイドを使用していましたのは昭和三十年代頃までで、AS樹脂、ABS、PPなどに変わっていきました。スチロールは植毛すると折れたりしてしまうことがありました。現在ホテルなどで使用されていますものは日本製と中国から輸入したものもあります。

 当社はこのようにして毛の生えているものでしたら総てと言っていいほどに関わってまいりまして、その一環としてセルロイドとも関係を持ってきましたような次第でございます。


なお、この原稿は松尾 和彦氏によって纏められました。

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