セルロイドサロン
第24回
松尾 和彦
セルロイドから塩化ビニールヘ
 何時の頃から語られたことかは、はっきりとしませんが真珠湾攻撃の成果は「電線のゴム皮膜を伝わって炎が拡大したために戦果を挙げることが出来た」という話が語られるようになりました。この話には続きがあって「アメリカは延焼対策として電線を塩化ビニール皮膜とした」と言うのです。そして撃墜されたB29を調べたところ、使われていた電線は確かに塩化ビニール皮膜でした。さらに燃料タンク周辺を塩化ビニールで覆って例え火がついてもすぐに消火出来る様な対策を施していました。これを見た技術者は自分達の言っていたことが正しかったと確認したと言うのです。

 この話の真偽は分かりません。また本当に語られていたことかどうかも不明です。しかし塩化ビニールの燃えにくさ(自己消火性)を伝える話として語られていたようです。

 そしてもう一つ、一九五四年(昭和二十九年)にアメリカで日本製のセルロイド玩具の輸入を禁止する理由とした語られたのが燃えやすさでした。白木屋デパートの火災が今更のように持ち出されたのです。ニューヨーク市の消防長官が可燃物取り締まり覚書を発してデパート、スーパーにおけるセルロイド玩具の販売を禁止したという報道が伝えられました。すると東京のデパートのセルロイド売り場で二回続けて放火事件が起きたのです。これは新聞報道に刺激された愉快犯によるものでした。何時の時代にも困った輩がいるものです。

 対する日本側の対応は早く、僅か数日後に東京の伊勢丹デパートが「セルロイド製玩具は全部不燃性のものに取り替えました。安心してお求めください」との新聞広告を掲載しました。皮肉なことにこれがセルロイド玩具に関して最後の広告となったのです。この頃に作られた玩具には、わざわざ「燃えない玩具」とのシールが貼られているものがあります。

 このように塩化ビニールはセルロイドに取って代わったことで知られています。ところが塩化ビニールの歴史はセルロイドよりも古い、と聞かされると驚かれるでしょう。フランスのルニヨールが塩化ビニール様ポリマーを作り出したのは、日本ではまだ江戸時代の一八三五年(天保六年)のことでしたから、セルロイドの発明より三十年以上も前のことです。

 その時には工業化は出来なかったのですが、一九二五年(大正十四年)頃から注目されるようになってきます。そしてドイツでは”イゲリット”、アメリカでは”ビ二ライト”という名前の塩化ビニールが生産されることになります。日本でも”ニポリット”が生産されました。

 これらの塩化ビニールは何れも軍需品としてシート、パッキング、ホース、電線皮膜などに使用されました。

 その当時は、まだ生産力も大したものではなかったのですが、戦後アメリカで大量に生産されるようになりました。そのためセルロイドに取って代わる存在となっていき玩具にも使われるようになると、アメリカでセルロイドの可燃性を問題とするようになりました。

 これはまだ根強かった反日意識に加えて塩ビ業界を後ろ盾とした議員が日本製玩具を問題視したものだと言われていますが、事実かどうかは現在では確かめようがありません。

 セルロイドの可燃性が問題視された一九五四年(昭和二十九年)の塩化ビニルの生産量は22,132トン(註:2003年の生産量は2,164,382トン)。これに対するセルロイドの生産量は8,354トンでしたから、塩化ビニルは完全にセルロイドに取って代わりうる存在でした。また価格もキログラムあたり255円になっていました。塩化ビニールほど劇的に生産量が伸び、単価が下がっていった樹脂は珍しいでしょう。(註:1947年当時の生産量は3トン、単価1,200円)

 しかしこれが商品となると六寸の起き上がり人形でセルロイド製が420円であったのに対して、塩化ビニール製では500円と価格差がありました。またセルロイド玩具の発売を中止したのは百貨店だけで一般小売店から姿を消したわけではありませんでした。そのため加工業者は危機感を持っていなかったのですが、製造禁止となると一気に窮地に追い込まれました。

 この危機を救ったのが皮肉にもセルロイドを駆逐した相手の塩化ビニールでした。始めのうちは加工方法が拙くて満足の行くものが出来なかったのですが、研究が進み鋳型が安価な電気鋳型となるとコンスタントに生産が出来るようになりました。また塩化ビニールは触感の柔軟さ、適度の重量感、ゴムのような弾力感などセルロイドには無い特性を持っていました。また色艶が優れていたために消費者はこぞって買い入れて一大ブームとなりました。生産者側にしても火事の危険性が無く、加工が容易という実にありがたい材料でした。

 こうなると第一次大戦中のセルロイド成金のような、塩化ビニール成金が現れることになります。十数工場であったのが僅か数年で百工場にも達したのです。しかしそのような好景気は直ぐに潰れるものです。第一次大戦が終わると終息してしいったと同じように価格、品質の低下を招いて倒産、破産が相次ぐこととなりました。

 このころはミルク飲み人形、カール人形などが現れた時代でしたが、ダッコちやんが現れると第二次塩化ビニール人形ブームとでも言うべき状況となりましたが、肝心のダッコちゃんの人気が急速に落ちていってしまいました。

 その後も好不況の波はありますが、塩化ビニール人形は今でも一定の生産量を保っています。

 塩化ビニールは電線の皮膜、玩具用だけではなく、水道管、ラップ、シート、長靴、炊事用手袋、消しゴムなど広く使われていますが、最近ではすっかり悪役になっています。と言うのは内分泌撹乱物質(いわゆる環境ホルモン)の問題とダイオキシン発生の原因物質とされていることです。
「神は八十幾つの元素を作られたが、中に一つだけ悪魔の元素を作られた。それが塩素である」とは過激な行動で知られる某環境保護団体の言葉ですが、環境ホルモン、ダイオキシンの問題は、ともにこの団体が科学的根拠に乏しいデータを示して塩化ビニールを悪役視しているものです。

 環境物質が検出されたとするデータは通常では到底ありえないような条件での実験の結果ですし、ダイオキシンも野焼きなど処理方法自体に問題があるものです。これでは信頼に足るものとは言えません。ちょうどセルロイドの引火性が問題視され、まるで自然に発火してしまう危険なものとみなしたものと同じようなものなのです。そのため良識ある学者は塩化ビニールをそれほど問題視していません。むしろ塩化ビニールという身の回りにある樹脂が失われてしまうデメリットのほうを問題としています。また代替品のほうが余計に環境に負担をかけてしまうのです。

 ところでこのビニールという名前ですが、語源はラテン語でワインを意味する、”vinum”という言葉です。戦後、カラフルな樹脂製バッグ類は総てナイロンバッグと呼ばれていました。ところがナイロン製のものなど一つも無くて、輸入品は塩化ビニール製、国産品はボパールだったのです。当時はナイロンという言葉にインパクトがあったのでナイロンと呼ばれたわけです。

 セルロイドに取って代わった塩化ビニールには、このような歴史があって今でも現役の主力選手です。身の回りにあるものでゴムだと思っているものは、先ず間違いなく塩化ビニールですので目にした時には、この話を思い出すようにしてください。

 

著者の松尾 和彦氏は歴史作家で近世、現代史を専門とし岡山市に在住する。


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