セルロイドサロン
第33回
松尾 和彦
セルロイドの日を捜せ

 今回は、まるで推理小説のような題名ですが「セルロイドの日」と呼ばれるのに一番相応しい日は、何月何日なのかを決めようと思っていますので、皆様方から各候補の中からどの日がよいかのご意見をいただきたいわけです。

第一候補: 十一月二十八日
 セルロイドの発明者として知られていますJ.W.ハイアットは、一八三七年十一月二十八日にニューヨーク州イェーツ郡スターキーで生まれました。
 セルロイドの父と呼ばれる人の誕生日こそ、セルロイドの日として相応しいのではないでしょうか。

第二候補: 四月十四日
 セルロイドがビリヤードボールに使われていた象牙の代用品として発明された話は有名です。セルロイドそのものが発明された日が分かれば最適だったのですが、残念ながら一八六八年の五月から十二月の間としか分かりません。
 ハイアットはその前に下敷きとなった試作品を幾つか作りました。中で一番セルロイドに近いものが特許認可された日が四月十四日です。

第三候補: 六月十五日
 セルロイドが発明された日。つまりカンフルチンキが偶然にかかって固まっているのを見つけたという話は有名ですが、眉唾なところがあります。それよりはセルロイドがセルロイドとして認められた日。すなわち認可されました一八六九年六月十五日のほうが相応しいのではないでしょうか。

第四候補: 十二月二十九日
 ハイアットの前にアレクサンダー・パークスがパーキシンを発明したという話もよく知られていますが、パークスは一八一三年十二月二十九日にイギリスのバーミンガムで生まれました。
 ハイアットよりも早かったことを考えますと、こちらのほうが相応しいのではないでしょうか。

第五候補: 五月十日
 偉大な発明家と呼ばれたハイアットは、一九二○年五月十日にニュージャージー州ショートヒルの自宅で八十二歳で亡くなりました。誕生日の十一月二十八日とともにこちらも候補にしていいと思います。

第六候補: 日本にセルロイドがもたらされた日
 実は、この日を「セルロイドの日」の最有力候補として考えています。ご存知の通り日本で最初のセルロイドは、一八七七年(明治十年)に神戸の二十二番館にもたらされた赤色のものだと言われています。
 この時のセルロイドは伝えられているようにドイツ製のものだったのでしょうか。どうして東京でも横浜でも大阪でもなくて神戸にもたらたれたのでしょうか。また翌年にも横浜にもたらされたのに定着しなかったのでしょうか。このようなことを調べていくことにしましょう。

 先ず、この時のセルロイドはドイツ製ではなかったと考えていいと思います。何故ならドイツでセルロイドが工業的に生産されるようになったのは、その翌年のことでした。

 さらに当時のドイツは普仏戦争とその後のドイツ帝国建国による混乱のために不況にあえいでいました。しかも新たな国家意識が芽生えたためにドイツは諸外国との間にトラブルを起こすことが多くなりました。
 この不況と国家意識は日本にまで影響をもたらしてドイツ系の商社は次々に日本の支社を閉鎖していきました。さらにドイツ人は自分達だけで固まって行動するようになり孤立していきました。その結果、ドイツの対日貿易額は急速に低下していきました。一八七七年(明治十年)は既に不景気の底を脱していた時期でしたが、それでもアメリカと比べると二十五分の一以下でした。
 これらのことから考えますと、日本に最初にもたらされたセルロイドがドイツ製であったという可能性は非常に小さいと言えましょう。

 では、どこの国のものだったのでしょうか、と聞かれますとやはりアメリカ製であったと考えるのが妥当な線でしょう。
 先ずアメリカでは既に一八七○年(明治三年)にセルロイドの製造が始まっていました。二番手となりましたフランスが一八七五年(明治八年)、イギリスが一八七七年(明治十年)ですから神戸にもたらされたセルロイドは、この三国の何れかのものに限られます。

 この中から製造を始めたばかりのイギリスは外してもいいと思います。まだ生産額、市場占有率ともに小さかったために日本に入ってきたとは考え難いのです。

 次にフランスですが当時の対日貿易額はドイツよりもさらに少なく、アメリカと比べると実に三百分の一でした。これではフランス製のセルロイドが日本に入ってきたとは思えません。

 これに対してアメリカは大陸横断鉄道の完成によりニューヨークなどで生産された工業製品が太平洋岸まで運ばれるようになっていました。さらに太平洋郵船が設立されてハーマン号、コスタリカ号などが定期航路に就航しました。金融恐慌による不景気はありましたが、貿易額において他国を圧倒していたことを考えるとアメリカ製のセルロイドが日本にもたらされた最初のセルロイドであったと考えるのが妥当な線だとなってしまうのです。

 次にどうしてセルロイドが他の場所ではなくて神戸にもたらされたのでしょうか。それは一八七七年という年号を明治十年と言い変えれば分かります。

 この年、鹿児島では西郷隆盛を中心とする薩摩士族が乱を起こしました。この西南戦争のために横浜に送られるはずだった外国からの物資が関西に向けられました。ところがその頃の大阪は通過切り替えに伴う混乱のために大変な不況に見舞われていました。外国の商館も次々に閉鎖されていて受け入れの窓口がなかったのです。そのために同じく不況ではありましたが、大阪ほどではなかった神戸に荷が集中したというわけです。

 セルロイドも本来なら横浜に入るべき品物の中に入っていたのでしょう。翌年に横浜の二十八番館のチップマン アンド サンズに見本が入荷したことから考えても一八七七年(明治十年)のセルロイドは横浜行きの荷が神戸に廻ったと考えられます。

 ただし、この頃は太平洋郵船が補助金を打ち切られた時代で持ち船を次々に三菱に売っていました。コスタリカ号が玄海丸、ネバダ号は西京丸、オレゴニアン号が名古屋丸、ニューヨーク号が東京丸となりました。

 これらは何れも当時としても時代遅れとなっていた外輪船ですが、燃費がいいので石炭のコストが高かった当時としては使い勝手の良い船でした。

 三菱は後に日本郵船となりましたので同社の古い記録を調べてみたら分かるかも知れませんが、やはり三菱の船ではなくて太平洋郵船がセルロイドを運んできたと見なすのが適切でしょう。と言いますのは三菱の船は先ほど申しました西南戦争のための物資輸送に使われていました。太平洋を越えてセルロイドを運んできた可能性は小さいのです。

 この時にどの船がセルロイドをもたらしたのかが分かればいいのですが、あいにくと当時の様子を伝える資料として最適のものと考えられます英字新聞「ヒョーゴ ニュース」は、一八九九年(明治三十二年)九月二十日の火災によりほとんどが焼失してしまいました。そのため困難を極める作業となっています。もしこの頃の事情をご存知の方がいらっしゃいましたらご連絡をお願いします。

 では、どうして定着しなかったのか、これは簡単です。当時のセルロイドは義歯仮床用のものでしたので赤色だけでした。セルロイドを引き取った鼈甲職人には、まだ着色に気がつかず模造珊瑚玉に加工しようと考えていました。ところがそれでは市場規模が小さく、技術もまだ稚劣で、しかも肝心のセルロイド生地の輸入が豊富でなかったために定着しなかったのです。

 セルロイドの日としてこの他に考えられますのは、日本セルロイド人造絹糸(網干)が創立された三月二十日、堺セルロイドが創立された七月三十日などがあります。

 この他にも適当ではないかと思われますご意見をお持ちの方がいらっしゃいましたらご連絡のほどをお願いします。

(8月22日加筆)

著者の松尾 和彦氏は歴史作家で近世、現代史を専門とし岡山市に在住する。


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