セルロイドサロン
第34回
松尾 和彦
ゼロ戦とセルロイド

以前に「戦争とセルロイド」で日本を代表する戦闘機のゼロ戦とセルロイドについて取り上げましたが、今回はもう少し掘り下げて関わりを見ることにしましょう。

ゼロ戦には、あまりにも過大な要求が突きつけられていました。巡航速度、上昇能力、航続距離など、どれを取っても今までの戦闘機の能力をはるかに越えたものでした。

中でも格闘性能については不可能とも思える数字を示されました。しかも軍からの命令ですから「絶対」で「出来ません」と言うことは「出来ません」でした。

これらの要求を総て満たしていたら、まるで鎧武者のような飛行機になってしまいます。しかし、それでは強力なエンジンが必要になりますし、一番重要な項目である格闘性能、中でも小回りが効かなくなってしまいます。

そのために三菱の技師が考え出した方法は徹底した軽量化でした。何しろビス一本に至るまで強度を損なわないぎりぎりの線まで削ったのです。そうしてほぼ同じ大きさのアメリカの戦闘機F4Fが約三トンであったのに対して、約ニトンにまで落としました。

しかしその結果、防御能力が失われたために数多くの優秀な乗員を失う結果となったことを設計者が後に悔いることとなりました。

ゼロ戦の過大な要求の結果、生まれたものの一つが大きな風防です。諸外国の戦闘機と比べるともちろんのこと、それまでの日本の飛行機と比べてもゼロ戦は風防の大きさが目立ちます。先のF4Fや陸軍の隼と比べると一目瞭然です。

これには視界を大きく取る、空気抵抗を抑える、軽量化するなどの目的があったのです。この風防にセルロイドが使われていました。と言っても総てセルロイドというわけではなくてガラスとガラスとの間の張り合わせとしていたのです。

耐衝撃性の強いセルロイドを中張りとすれば、風防が割れるという致命的な出来事を防ぐことが出来ます。そのためにセルロイドを使っていたのです。

でも、そんな大きな風防でしたら、そこを攻撃して乗員に致命傷を与えれば撃墜できるのではないかと思えるところです。しかし戦争の始めの頃は「風防は攻撃しない」といいう不文律が各軍にありました。命をかけている者同士の連帯感により乗員を負傷させることなく撃墜するのをよしとしていたのです。


 しかしそのような紳士協定も戦争の激化とともに守られなくなりました。それどころか、手っ取り早い撃墜の手段としてわざと操縦席を狙うものまで現れるようになりました。そのため一九四三年(昭和十八年)になるとゼロ戦も操縦席の防御を行ったのです。この防弾鋼板の重さは五十キロ、防弾ガラスの重さが二十キロ。重装甲のためにゼロ戦の性能は低下してしまいました。丁度、鎧兜が重過ぎて立っているのがやっとといった状態となったのです。この点について述べていくとセルロイドの話から離れていってしまう一方ですので、ここまでとします。

ゼロ戦の特徴として挙げられるものに航続距離の長さがあります。日本は当時、中国と戦争を行っていました。奥へ奥へと逃げていく中国軍を地上軍が追いかけていくのは大変なので飛行機で追いかけていました。ところが航続距離の長い爆撃機についていける戦厨機がなかったために、中国空軍の迎撃を受けて撃墜される爆撃機が相次ぎました。

そのために航続距離の長い戦闘機の開発が急務とされ、ゼロ戦が設計されたのです。その航続距離の長さはエンジンが燃費が良かったということもありますが、胴体の下に落下式の燃料タンクを取り付けたのです。

ゼロ戦本体の燃料タンクは五二五リットル。これに対して落下式燃料タンクは三三〇リットルですから約六割も航続距離が伸びることになります。(実際はタンクの重量、抵抗が加わるので約五割)これだけ伸びたから重慶まで爆撃機についていくことが出来たのです。そして一九四〇年(昭和十五年)九月十三日を迎えます。この日、日本側のゼロ戦十三機と中国空軍のI15,I16二十七機とで行われた空中戦はゼロ戦の圧勝でした。以前は二十七機総てを撃墜したといっていましたが、実際には被弾したまま逃走したり、不時着したり、戦線を離脱したものがいたりで撃墜十三機、不時着六機というのが実際の戦果でしょう。それにしても日本側の損害は被弾四機だけですからワンサイドゲームでした。

この航続距離を可能にした落下式燃料タンクにもセルロイドは使われていました。あのドラム缶のようなもののどこにセルロイドがと思われるかもしれませんが、燃料がどれぐらい残っているかを確認するための覗き窓として使われていたのです。覗き窓のような機能を持っているものは、今でも石油などの液体燃料を使用するものにエンジンからストーブに至るまで見られます。その先駆け的存在がゼロ戦でセルロイドが使われていたというのは興味深い事実です。

この落下式燃料タンクを装備したのはアメリカもイギリス、ドイツも、ずっと後の話です。どうしてこのような有効手段に気がつかなかったかということは各国とも押し黙ったままです。

ただし落下式燃料タンクによる航続距離の増加が、ラバウルからガダルカナル間の一〇四〇キロを往復して戦闘に参加するという過度な要求につながり、数多くの飛行士を失う結果となってしまいました。

ゼロ戦を良く見てください。左右の主翼の脚の辺りに出ている棒のような物が二○機銃であるのは分かりますね。ではでは左翼の端っこにある棒は一体何のためについているのでしょう。

これはピトー管と呼ばれていて中を通過していく空気の流れを調べて速度を計るものです。詳しく言いますと非常に複雑なのですが、要するに圧力の差から測定するのです。構造が簡単で、直ぐに取り付けられ、価格も安価なので今でも各方面に使われています。

このピトー管にセルロイドが使われていたのは耐衝撃性の良さがかわれてのことでしょう。
他にも計器の表示板に使われたり、搭載された蓄電池に使われたりしてゼロ戦の高性能を支えていました。

このようにゼロ戦には意外なほど多くの場所にセルロイドが使われていました。そして戦後の模型にもセルロイドが使われました。もちろん風防ガラスとしてです。今なら透明プラスチックがあるでしょうが、当時はセルロイドが最高の透明素材だったのです。

生産機数一万を誇ったゼロ戦も今では十数機しか見ることが出来ません。もし見学される機会がありましたら「あ、ここにセルロイドが使われていたのだな」と目を向けるようにしてください。
著者の松尾 和彦氏は歴史作家で近世、現代史を専門とし岡山市に在住する。


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