セルロイドサロン
第4回
松尾 和彦
外国商館とセルロイド
一八七七年(明治十年)神戸の二十二番館に真赤な半透明の美しい板が送られてきた。ガラスのようでもあるが火を近づければ激しく燃える。槌で叩いても割れることはなく小刀で削ることもできる。ちょうどガラスと鼈甲の特徴を合わせたようなものであった。

これが日本の歴史に始めて現れたセルロイドであった。

翌年には横浜の二十八番館にあったチップマン父子商会というアメリカ系商社に同じようなセルロイド生地の見本が届けられた。

前者はドイツ製だと伝えられているがドイツでセルロイドの製造が始まったのは、その翌年のことなので実際はフランスもしくはイギリス製で、後者はアメリカ製であった。

これらのセルロイド生地は鼈甲細工を営んでいた人々、もしくは鼈甲商人に引き取られて本邦での研究が始まった。中でも西川伊兵衛、横浜の下鳥儀助(半田屋)、東京の鈴木清兵衛(鈴清)、市川嘉七といった鼈甲商人が、熱心だった。しかし彼らはセルロイドの知識に乏しく、また輸入品の在庫も底をついたために日本でのセルロイド産業は跡絶えることとなった。

一八八四年(明治十七年)になると、上野栄三郎(ハチ公の飼い主とは別人)がアメリカからセルロイドのサンプルを持ち帰った。この加工研究を行なった山口喜太郎、鈴木九衛門の両名が三井物産に輸入を働きかけ、翌年にはアメリカから輸入された大量のセルロイド生地が横浜に到着した。

また同じ年に横浜のドイツ系商社にドイツ製セルロイド模造珊瑚が入ってきた。そして一八八八年(明治二十一年)になると、横浜の商館にドイツから象牙縞などのセルロイド生地が輸入され、これを櫛、傘の柄、小間物などに加工するものが現れた。

このように日本でのセルロイド産業の揺籃期は外国商館と深いつながりを持っていた。

これら外国商館は殆とが取り引きが行ないやすいように港の近くにあったのに対して、住居は山の手に建てられていた。今日、異人館と呼ばれ観光名所となっているのは住居が多い。(この港が見える山の手の生活を憧れの的としている人もいるが、実際に経験してみると「もう二度と御免だ」というのが偽らざる感想である)

ペリーが浦賀にやってきて鎖国から開国に変わったものの、攘夷思想は根強く外国人は居留地制限を受けた。この制限は二十世紀が近づいた明治三十二年(一八九九年)六月に廃止されるまで続いた。

当時のセルロイド輸出入は、明治四十三年(一九一一年)に二百八十五トンを輸入し、金額は六十五万三千三百六十一円だったのに対して輸出は全くのゼロである。(この数字がどれくらいのものかというと、製鉄所を一つ作るのに必要だった費用が約六十万円だから、いかに巨額だったかが分かる)ただし国産品がなかったわけではなく明治四十四年(一九一二年)に百八十五トン、翌年には四百七十、六トンの生地を製造している。

当時の日本産品は指導にあたった外国人が硝化綿の安定化に対する認識に乏しく、また改善を申し入れても聞き入れようとしなかったために変色、自然発火などが起きたために品質が劣るとされたのである。

この時の指導にあたったイギリス人、ドイツ人の住居となった洋館が今でも網干に残っている。
第一次大戦はセルロイド業界に起死回生をもたらしたが、その頃には国産セルロイドも品質が良好になっていた。外国商館が姿を消した時期に日本のセルロイド業界が最盛期を迎えたのは、何やら皮肉めいてもいるし象徴的でもある。
著者の松尾 和彦氏は歴史作家で近世、現代史を専門とし岡山市に在住する。

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