セルロイドサロン
第49回
松尾 和彦
セルロイドと七福神

 七福神巡りをされたことがありますか。御正月やジャンボ宝くじが発売されている時期には急に参拝者が増えるようですが、中には普段でも定期観光バスが運行されている場所もあります。

 七福神巡りのコースは全国には百数十もありますので、貴方のご近所にも必ずあるはずです。東京にもよく知られているものだけでも十八ヶ所の七福神巡りコースがあります。

 この七福神巡りの起源と由来については諸説様々ですが室町時代には始まっていたようです。徳川家康が江戸に幕府を開き天海が相談役に起用されると、まだ戦国の気風を残して荒々しかった人々の気風を鎮める手段として採用したのが、江戸期中頃になると庶民信仰として盛んになっていきました。

 その七福神巡りの中で由来がはっきりしていて、参拝客も一番多く定期観光バスも運行されています隅田川(向島)七福神のコースを紹介しながら、それぞれの神様について紹介していくことといたしましょう。


 スタート地点は江戸庶民の信仰を集めていた浅草からといたしましょう。吾妻橋を渡ってもいいのですが、ここは言問橋を渡ることといたしましょう。在原業平の作になります「名にし負はば いざ言問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」の歌から、この橋の名前となり、都鳥つまりはユリカモメが東京都の鳥となっているということはあまりにも有名です。

 その言問橋を渡って隅田川沿いに上流へと向かって歩いていきますと三囲神社があります。この社は田中稲荷社と呼ばれていたのですが、文和年間(一三五三−一三五五)に近江三井寺の僧源慶が東国を遍歴した折に弘法大師が建立した社が今では廃社となっていると聞いて、改築したところ白狐が現れて神像を三回廻ったことからこの名前で呼ばれています。

 三囲神社に祀られていますのは七福神と聞いて直ぐに思い浮かべます恵比寿、大黒天の両神です。
 烏帽子をかぶり、釣竿を手にして、鯛を抱えている恵比寿は七福神の中で唯一の日本の神様で、漁業の守護神、商売繁盛、家内安全、縁結びにご利益があります。

 また意外と知られていないことですが、足の神様でもあります。十月のことを神無月と言いますが、それは十月には神様が総て出雲大社に行ってしまうからです。そのため出雲では「神有月」と呼ばれています。

 この時に恵比寿は「自分は足が悪いので出雲へは行くことが出来ない」と嘘をつきます。そうしたら本当に足が悪くなってしまいました。そのため嘘をついたことを反省して足の神様になったのです。
 大黒天のように「天」の字が付きます神様は「天竺」すなわちインドの神様です。大きな袋に小槌を持った大黒天は五穀豊穣、開運蓄財を授けてくれます。 


 三囲神社のところにあります七福神巡りの案内板の順路に沿って北上すると、どこかしらから芸者が出てきて三味線の爪弾きが聞こえてきそうな街になります。それもそのはずでこの辺り一帯が江戸時代から続く向島の花街で、運が良ければ和服姿の女性と出会うことになります。

 向島見番前を過ぎると間もなく左手に弘福寺の山門が見えます。この寺は一六七四年(延宝二年)に鉄牛によって開かれた黄檗宗の寺で、どことなく中国風の感じがするのは本山の京都万福寺を模した大明式建築だからです。

 この弘福寺に祀られているのは七福神の中で唯一の実在の人物である布袋尊です。福福しい耳を持ち大きな袋を背にしている中国の禅僧で、円満な福相、清い容姿、欲の無い心を授けてくれます。また物が大量にあるシンボルともなっています。


 弘福寺の隣にあるのが天台宗延暦寺の末寺の長命寺で、かつては常泉寺と号していたのですが、徳川三代将軍家光が鷹狩に来た時に急な腹痛に襲われたのをこの寺の井戸水で薬を飲んだところ、たちまちにして快癒したので長命寺の寺号と長命水の名前を賜ったと言われています。

 長命寺に祀られていますのが七福神の中の紅一点弁財天です。インドの水の神様なので井戸水のある長命寺が選ばれたということです。この神様は日本に伝来してからは音楽の神、知恵の神へと変身しました。

 長命寺と聞いて桜餅を思い浮かばれる方も多いことでしょう。享保年間(一七一六−一七三六)に墨堤の桜の葉を利用して餅を包んだのが起源で、桜餅発祥の地となっています。

 この桜餅につきましては笑い話がありまして、包んでいる葉ごと食べているのを見て「それは『皮をむいて食べる』のですよ」と言われて隅田川の方を向いて食べ出したのです。

 この桜餅の斜め向かいには言問団子の店もあります。その名前の由来は言うまでも無く在原業平の歌から採ったものです。


 長命寺から墨堤通りを八百メートルほど北に歩きましょう。そこにあります白鬚神社は九五一年(天暦五年)に慈恵大師良源が関東に下向した折りに、近江国より白鬚大明神の分霊を勧請したという由緒ある社です。

 ここに祀られているのは寿老「神」で、寿老「人」ではありません。その理由は、この次でお話します。

 杖をたずさえ鹿を連れている寿老人は中国の延命長寿の神様で、杖の先には長寿の秘訣を記した巻物をつけていて健康と長寿とを授けてくれます。


 白鬚神社から東南二百メートルほどのところにあります向島百花園こそが、隅田川七福神発祥の地です。

 一八○四年(文化元年)に日本橋の骨董商佐原鞠雨が旗本屋敷三千坪を買い取って、様々な木を植えて百花園を開きました。その後、太田蜀山人、亀田鵬斎、大窪詩仏、村田春海、加藤千蔭らが鞠雨が愛蔵している福禄寿に目をつけて、遊び心から七福神を揃えることを思いつきました。その時に他の六福神は揃ったのですが、寿老人だけが足りません。そこで白鬚神社の大明神を見立てたというわけです。寿老「人」ではなく、寿老「神」となっているのはこのためです。

 向島百花園に祀られている福禄寿は頭が長く髭を蓄えて経巻を結びつけた杖を持っている、中国の長寿と立身出世の神様です。一説では寿老人と同一人物であるとされていて、そのために吉祥天を加えている場所もあります。


 向島百花園を後にして明治通りから墨堤通りに入って防災団地を左手に見ながら北上し、鐘淵中学の手前の信号を右折して進みますと多聞寺があります。

 真言宗智山派に属するこの寺は一六○六年(慶長十一年)の創建で、山門は墨田区内で最古の建物です。

 名前の通り多聞天(毘沙門天)を祀っています。この毘沙門天は持国天、増長天、広目天とともに四天王の一人で、北方を守る神様です。身に鎧をまとい、左手に宝塔、右手には宝棒を持つ厳しい顔をしたインドの神様ですが、勇気を与え財福を授けてくれます。

 また上杉謙信の旗指物が毘沙門天の「毘」の字であることは、歴史ファンなら良くご存知のことです。


 この七福神が何時頃から宝船に乗るようになったかは定かではありません。また宝船だけではなく、俵、瓢箪、枡、達磨などに乗っているものも見られます。東京には、隅田川の他にも日本最古と言われています谷中、下町の代表格の浅草、新都心の新宿、寅さんで御馴染みの葛飾など、よく知られているものだけで十八ヶ所もの七福神巡りがあります。皆様の近所にもあるはずですから一度巡られてはいかがですか。


 これだけ親しまれている神様ですから、セルロイド人形としても非常に早くから造られています。確認できるところでは明治の終わり頃のものもありますので、最初に取り上げられました題材の一つです。

 初めの頃は底に鉛を入れた小さな起き上がりでしたが、すぐに大きな中空の人形となります。その頃はデパートなどで売られる高級品だったのですが、セルロイドの普及とともに夜店などでも売られるものとなりました。

 関東大震災と、その後の不景気はセルロイド人形の好みも変えました。人々は福の神を好むようになり七福神も売れました。七福神巡りを行っている寺社で売っている御人形が土や木製であったのが、セルロイドとなったのもこの頃のようです。中空のものだけではなく中身が詰まっている形のものも現れて人気を博しました。

 戦後には思いもかけない形で人気が出ました。日本にやってきたアメリカなどの兵隊が「ジャパニーズ ハッピー ゴッド」として買い求めたのです。御土産として買い求めやすい価格であったことも手伝って、彼らは好んで買いました。そのため今でもアメリカなどには「メイド イン オキュパイド ジャパン(占領下の日本製)」の七福神が見られます。

 このセルロイド製七福神人形は横浜のセルロイドハウスでも数多く収蔵していますので、訪れた際にはご覧になってください。


 七福神などの人形はセルロイド産業の衰退とともに材質が変わっていき、塩化ビニールなどのプラスチックとなったりしましたが、最近ではまた環境問題から土製、木製などの自然に戻るものが好まれるようになっています。


 このように七福神は非常に身近な神様なので皆様も一つぐらいは御手元に置かれてはいかがでしょうか。

著者の松尾 和彦氏は歴史作家で近世、現代史を専門とし岡山市に在住する。


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