セルロイドサロン |
第60回 |
松尾 和彦 |
写真・映画の発達とセルロイド |
その日、イタリアの物理学者ジョバンニ・バッティスタ・デラ・ボルタ(一五三五?−一六一五)の屋敷は、大変な騒動になってしまいました。 目の前の壁に上下逆さの小さな人々が動き回る様子が映っていたからです。これを見た客は慌てふためいて部屋から飛び出していき、デラ・ボルタは魔術を使ったかどで裁判にかけられてしまいました。 もちろんこれは魔術でもなんでもありません。教会の力が絶対的で魔女裁判などが行われていた時代ならではの珍事です。 ピンホールカメラで知られているように、小さい穴から光が入ると反対側に外部の様子が倒立して小さく映るということは、既にギリシャ時代のアリストテレス(B.C.三八四−三二二)も観察していたことです。現在に至るまで、カメラはこの原理を利用して撮影されています。この今では一般的に使われているカメラなる言葉は、ラテン語で暗い部屋という意味の「カメラ・オブスキュラ」から生まれたものです。 デラ・ボルタは別に写真を写そうと考えていたわけではなく、絵画の遠近感や比率を正確に表現するための補助手段として使おうとしていたのです。その過程で人々を楽しませようとしたのが、とんだ騒動になってしまいました。 デラ・ボルタがどうして写真を撮れなかったかというと、映し出された像を定着させることが出来なかったからです。 この技術に挑戦したのがフランスのジョゼフ・ニセフォール(一七六五-一八三三)で、鉛と錫の合金板にアスファルト溶液を塗布したものに八時間の露光を行って世界で最初の写真撮影に成功しました。その時代は一八二六年だと言われていますが、はっきりとしたことは言えません。 定着技術を更に進化させたのがルイ・ジャック・マンデ・ダゲール(一七八七−一八五一)で、銅版にヨウ化銀を塗ったところアスファルトよりも感光性に優れていることが分かりました。そして偶然の出来事から、露光後の金属板を水銀蒸気で処理すると像がはっきりと浮かび上がってくることが分かり、露光時間がぐんと短縮されました。 その後、ダゲールは現像済みの金属板を塩水で洗えば写真が黒ずんでいくのを防げるのも発見しました。 その名前を取ってダゲレオタイプと呼ばれた銀板写真は約三十年間続きましたが、高価である、印画の複製が出来ないなど欠点が多いものでした。 ダゲールと同じ時期にイギリスのウィリアム・ヘンリー・トールポット(一八○○-一八七七)は紙に感光性を与える方法に着目して、明暗が逆になるフォトジェニック・ドローイング(光線画)と呼ぶ紙印画法を発明しました。この方法が改良されて、先ず陰画(ネガ)を作る方法と、陰画から陽画(ポジ)を作る方法が発明されました。これで焼き増しが可能になったのです。以来、現代に至るまで写真はトールポットの方式が基になっています。 感光剤を塗るフィルムを何にするかは大きな問題でした。先ず最初に用いられたガラス板では重い、割れやすい、複写が出来ないなど欠点が多くありました。そのため紙、ゼラチン、ガーゼなどが試されましたが、何れもムラが出来る、脆い、保存が効かないなどの欠点があり、望むような結果は得られませんでした。 このフィルム材料としてセルロイドを使用することを思いついたのは、アメリカのジョージ・イーストマン(一八五四-一九三二)で、一八八九年(明治二十二年)に発見された方法は、一定した写真となる、丈夫である、保存が効く、安価だといった具合に数々の優れた特徴を持っていました。 このイーストマンのコダック・カメラは、操作が簡単で誰でも写真を撮ることが出来ましたので一挙に大衆化しました。 そのためセルロイド(硝酸セルローズ)は、長期にわたって写真フィルムとして用いられることとなりました。 写真の次には動く姿、つまりは映画に出来ないかとの要求が生まれました。少しずつ変化した絵を連続して見せると残像効果により動いているように見えるという現象は、これもまたギリシャ時代から知られていることです。 円盤を鏡に映して回転させスリットの間から覗くと画像が動いて見えるというストロボスコープが発明されたのは、一八三二年のことで幕末に日本を訪れた外国人達もお土産として幕府高官に贈呈しています。 映画のように連続して動く映像となると、僅か一秒でも二十四枚のフィルムが必要となります。また熱や引張りに対する耐久性、映像精度という点でも写真の何倍もの性能が要求されます。 そのため映画というか動画の発明は、一八九三年(明治二十六年)にトーマス・エジソンが休憩時間に工場から出てくる人々を映した僅か数十秒のものが最初ですから、写真やストロボスコープからするとずいぶんと後の話です。 この時にエジソンが使ったのも、「映画の父」と呼ばれているオーギュストとルイのリュミエール兄弟が二年後に用いたのも、イーストマンによって実用化されたセルロイドベースのロールフィルムでした。 このフィルム用セルロイドは装身具や雑貨用のセルロイドに比べると比較にならないほどの寸法精度が要求されるものでした。映画が発達したのもセルロイドの技術が向上したからに他なりません。 映画は最初のうちは十分程のものだったのが、次第に長くなり一時間を越えるものまで現れるようになりました。さらにサイレントからトーキーに変わると一秒十六コマが二十四コマと変わります。 当然のことながらフィルム用セルロイドの需要が急増し、供給が追いつかないということになりますが、ここで思いもかけないことが起こります。 映画制作の中心であったアメリカはセルロイドフィルム製造でも世界最大の産地でした。モンロー主義に基づき、折から行われていた第一次大戦にも不介入であったアメリカですが、やがては参戦します。 硝酸は火薬用として必要になり、家庭にあったコルセットまで供出してセルロイドは爆薬に、芯に使っていた鉄は軍艦や大砲へと変身したのです。 戦争が終わってしまうと窮屈さから解放された女性達は、もう二度とコルセットをつけようとはしませんでした。そのためコルセット用のセルロイドがフィルム用へと転用され、供給不足が解決されたのです。 その後も長い間フィルム用として使用されてきましたセルロイドですが、やはり燃えやすいという欠点が問題とされました。そのため第二次大戦後から急速に酢酸セルロースに地位を奪われました。 しかしセルロイドの果たした功績は大きく、一九八二年度のアカデミー科学技術賞を受賞したのです。フィルムとして使用しなくなってから三十年を経過してからの受賞は、いささか時機を失したの感もあります。 自然発火をする、変質して刺激性の異臭を発するといった点も問題視されましたが、それは大事に保存しようとするあまり金属製の密封容器に容れたが為のことで、風通しの良い冷暗所で保存していただければ事故に繋がるようなことはありません。 現在、写真はデジタルカメラから、さらには携帯電話での撮影などを行っていてフィルムを見かける機会が減ってしまいました。映画も余暇の王者と言われて月に一回は見ていたのが、年に一回も見ないということになってしまいました。 このような状況をダゲールやトールポットがみたらどのように思うでしょうか。 |
著者の松尾 和彦氏は歴史作家で近世、現代史を専門とし岡山市に在住する。 |
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