セルロイドサロン
第65回
(株)タチカワ 立川 信義
(株)小野由  小野 喜啓
セルロイド狂騒曲

 「成金」という言葉があります。元はと言えば将棋の駒が相手陣地にまで行くと裏返って「金」将と同じ働きをするように「成る」ことから、出来た言葉です。これから転じて、元は貧乏だった者が急に金持ちになったという意味で使われます。でもあまりいい意味ではなくて軽蔑した言い方であるのはご存知の通りです。

 現代においての「成金」は六本木ヒルズの住民に代表されるようなIT長者でしょう。またかつては数多くの「土地成金」を産み出しました。その他にも「糸偏成金」、「金偏成金」など様々な「成金」が生まれました。
 セルロイド産業においてもかつては「成金」を輩出した時代が幾つかありました。そしてまた反動で極端なまでに落ち込んだ時代もありました。その姿は、まさに「狂騒曲」と呼ぶに相応しいものです。

 今回は、セルロイド「成金」などの「狂騒曲」について語ることといたしましょう。



 一九一四年(大正三年)六月二十八日、セルビアの首都サラエボでオーストリア皇太子夫妻が暗殺されるという大事件が起きます。それから丁度一ヶ月後に起きた戦争は、たちまちのうちに広がってヨーロッパ全土が戦場と化しました。

 こうなるとヨーロッパのセルロイド生地メーカーは一斉に火薬の製造工場に転じました。あおりを受けたのが玩具メーカーで生産がストップします。注文は当然のごとくに戦火の影響など文字通り遠い世界の出来事であった日本に集中しました。セルロイド生地の生産量は戦争が始まった一九一四年(大正三年)には四九六トンだったものが、六八六トン、一一六七トン、一八○四トンと増加していき一九一八、一九の両年には二千二百トンを超えています。

 その結果、日本中の工場という工場がフル生産体制に入った上に、セルロイド価格も高騰したものですから零細な業者でも一日百円の利益を上げたほどです。この当時は「学士様」と呼ばれて珍重された大学卒の初任給が四十円(もちろん月給)前後でしたから、いかにすごい数字であったかが分かります。しかも屑セルロイドが一日に二十ー三十円分も出るのですから、金が入ってきて仕方ない状態でした。



 この俄景気による成金としてよく名前が知られているのが内田信也、山下亀三郎、山本唯三郎の三人です。何れも船成金ですが、内田は鉄道事故に遭ったときに「俺は神戸の内田だ。金は幾らでも出すから助けてくれ」と言ったと伝えられています。ただし内田が鉄道事故に遭ったのは事実ですが、そのようなことは言っていないようです。内田は後に衆議院議員から貴族院議員となり戦後は大臣も勤めています。

 山下の会社は今でも続いている山下汽船です。山下は他の二人ほど破天荒ではなかったようで、これといったエピソードは伝わっていません。

 山本は豪遊をした挙句に落ちぶれていった人物ですが、百円札を燃やして「これで明るくなったろう」と言って靴を探してみたり、藤原信実の筆になると言われる佐竹本三十六歌仙絵巻を三十四万円(現在の価格にして二十億円以上)を出して買ったはいいが、直ぐに持ちこたえられなくなって売りに出したりしています。その時に、この絵巻が表紙も含めて三十七枚に分割された話はあまりにも有名です。現在では、その一枚一枚が最低でも一億円にはなると言われていますから、完璧な状態だったら一体幾らになっていたでしょうか。



 セルロイド業界には、これほどの話は残っていませんが、それでも小僧が遊郭に一週間も居続けたといった、まるで落語の居残り佐平次さながらのことはありました。

 この反動は大きく、戦争が終わってしまうと大不況に見舞われ生産停止、倒産が相次ぐこととなります。何しろ二千二百トンをオーバーしていた生産量が半分以下の九七七トンにまで落ち込んでしまったのです。



 その後、昭和初期に第二期黄金時代とも言える時期があり、一九三四年(昭和九年)から七年間というものは一万トンを超える生産量を記録しました。ところが一九四一年(昭和十六年)の三月に商工省の指示によって硝化繊維工業会が設立され、原料の確保、製品の需給調整、価格の調整、製品規格の制定などを行うこととなりました。

 この工業会なるものは、他の業界も総て同じようなものでしたが、見かけは業者の自主的団体、実態は商工省の意のままに動くロボット組織でした。

 このような態勢を整えた上で、その年の七月に何の前触れも無く硝酸の配給を削減してきました。セルロイドに硝酸は必要不可欠のものですから、事実上のセルロイド生産制限の実施です。十一月には予想されていた通りにセルロイド配給統制規則が実施され、セルロイド生地統制会社とセルロイド屑統制会社とが設立されました。

 このような規制が課せられた上に民需用はゼロに等しいものですから、新生生地メーカーは十二から四、再生が五十六から僅か二、加工メーカーに至っては二千六百が二百五十から三十八と激減しました。その頃は配給を受けないと生産できなかったのです。



 戦後、セルロイド生地製造工場は賠償撤去工場に指定されました。当然のことながら生産量は激減しました。一方でセルロイド玩具の輸出が奨励されました。戦争が終わった一九四五年(昭和二十年)は一九○九年(明治四十二年)以来の大凶作と言われました。食糧難がピークとなった未曾有の危機から国民を救うために食料の輸入を懇請しました。見返りとして選ばれたのがセルロイド製を含む日本産の玩具だったのです。

 パープーと呼ばれるサルや少女の人形の極彩色の羽をつけて木や竹の棒にぶら下げたものが、年に六十万個も売れました。文字通り羽がついたように売れたのです。

 こうなるとセルロイドの価格が急騰してしまいます。一日にして倍になったこともあるほどで、馬力ごと盗まれたという経験もしました。

 セルロイド業者は活気に溢れて昼間から麻雀屋に繰り出したり、居残りを決め込んだりする者が現れました。朝鮮戦争の頃ともなると、これはもう狂乱の時代ですから昭和の終わりから平成の初めの頃のバブル景気顔負けでした。

 こんな時代が終わったのは一九五四年(昭和二十九年)です。この年には一月から六月までの間のアメリカ向け輸出が四百万ドルを記録しました。一ドルが三百六十円の時代ですから十四億四千万円です。大卒の初任給が七、八千円の時代でしたから、この数字がどれほどのものだったかがお分かりいただけると思います。

 そこへニューヨーク市の消防長官が「日本製のクリスマス用玩具は燃焼性があって危険だから買わないように」と発表したのです。日本でも例の伊勢丹の広告です。こうなるとセルロイドは悪者扱いです。玩具屋さんは近所に知られたらまずいと思ってセルロイド玩具は潰してから捨てました。また業者自身の手で河原に集めて燃やしたりしました。

 実は消防長官の発言は多分に政治的なもので、その頃アメリカでは塩化ビニールが本格的に生産されるようになっていました。日本製のセルロイド玩具が市場を席巻しているので、塩ビ業者や玩具業者からの圧力があったのです。

 しかしいずれにせよこれでセルロイド業者はパニックです。幸いにも塩ビに切り替えられた方は良かったのですが、失敗された方はアウトです。



 こんなセルロイド業界は何時の間にか先細りになってしまい、記録が失われてしまいました。このまま人々の記憶からも消えてしまうのはあまりにも惜しいと思ったものですから、様々な人を訪ね歩いてビデオに撮ったりしました。それに写っている人々も残念ながら今では多くが鬼籍に入られてしまいました。  



 このようにセルロイド産業というものは浮沈が大きいもので、まさに狂騒曲と呼ぶに相応しい業界です。




著者の松尾 和彦氏は歴史作家で近世、現代史を専門とし岡山市に在住する。


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