セルロイドサロン
第70回
松尾 和彦
ミツワ石鹸とセルロイド


 ある程度以上の年齢の方なら、アメリカ製のテレビドラマ「名犬ラッシー」をご存知のことと思います。そして、その番組のスポンサーであったミツワ石鹸のCMも記憶に残っていることでしょう。三木鶏郎の作曲した「ワッ、ワッ、ワッ、輪が三つ。ワッ、ワッ、ワッ、輪が三つ。ミツワ、ミツワ、ミツワ石鹸」というテンポの良い曲に乗って人形が踊るCMは、当時としては斬新なもので今でも特筆される存在となっています。

 この記憶に残るCMを放送していた会社は名前の通り「ミツワ石鹸」でしたが、残念ながらこの会社は1975年(昭和五十年)にP&G社に吸収合併されてしまい、今ではもうありません。同社で出している薬用石鹸ミューズだけが「ミツワ石鹸」という会社で作られていた製品を受け継いでいるものとなりました。

 三輪山(愛知県愛西市)を出自とすることから、その名前を取った三輪善兵衛が尾張名古屋から江戸に出てきて隅田川沿いの日本橋(旧:日本橋区米沢町20現:東日本橋2−20 現在ではカゴメ東京本社のビルとなっている)に化粧品の製造販売の店を構えたのは、咸臨丸が太平洋を渡ったり、井伊直弼が暗殺されたりで騒然としていた1860年(万延元年)でした。
 この善兵衛という名前は代々受け継ぐもので、1871年(明治四年)生まれの二代目は十六歳で名前と事業とを引き継いだのですが、先見性に富んだやり手として知られています。

 中でも広告宣伝の名人で、当時としては珍しい広告宣伝部を社内に設け、実に十万冊に及ぶミツワ文庫を設置し、効果的な広告宣伝を研究させました。ミツワ石鹸のCMも、社内の伝統に基づいたものだったのでしょう。このミツワ文庫は、残念ながら関東大震災で失われました。



 セルロイドの研究を手がけたのも二代目で1898年(明治三十一年)、透明セルロイド生地を作り東京で開かれた共進会全国品評会に出品して進歩賞銅牌を受貧しました。また五年後には大阪で開催された第五回国内勧業博覧会にも出品したことが、セルロイド生地に関する人々の関心を呼び起こすこととなりました。

 しかし二代目はセルロイド工業には出資しませんでした。と言うのはセルロイド工業の確立となると、到底当時のー、二の企業家の資金力ではまかないきれないほどの巨費を必要としたからです。

 セルロイドに見切りをつけた二代目が手がけたのが石鹸で、1910年(明治四十三年)から製造を開始しました。そして翌年には肝油ドロップを手がけました。あの飲みにくい肝油が、これで身近になったのです。

 石鹸、肝油などを手がけて事業を拡大した二代目は、淀橋区下落合350番地(現新宿区下落合3−10、目白シティハイツが建っているところ)に豪邸を構えます。ところがその目と鼻の先とでも言うべき下落合416(現新宿区2−13、日立目白クラブのある辺り)には、花王石鹸の長瀬富郎の豪邸があったのです。ともに石鹸を手がけている両者が、これほどまでの距離に住んでいたとは驚くべき偶然の一致です。

 この結果、面白い現象が起こりました。下落合一帯ではお歳暮、お中元に「必ず」と言っていいほど石鹸を贈るようになったのです。もちろんミツワと花王で他の石鹸が入り込む余地はありませんでした。三輪邸に近いところではミツワ、長瀬邸周辺では花王だったのですが、どの辺りに境界線があったのか、例外はあったのかといったところは、はっきりしません。土地の古老にでも聞いてみたいところですが、当時の事を知っている人は今ではほとんどいません。



セルロイド玩具などを成型するときに離型剤として石鹸液を塗りました。それが花王石鹸なのか牛乳石鹸なのか、それともミツワ石鹸なのかは人それぞれ違っていたでしょうが、思いがけない形で三輪善兵衛はセルロイド産業と関わりあっていたのです。

 1927年(昭和二年)から日本橋クラブの第四代理事長を務めたりもした二代目は、1939年(昭和十四年)に六十八歳で没します。

 静岡県の沼津市に沼津倶楽部という高級料亭がありますが、この建物は戦前には三輪家の別荘だったものです。
 京都から移築された茶室。数寄屋造りの建物。和風のサンルーム。室町風の付書院。そして三千坪の庭園。さすがに大会社の社長の別荘と言うべき豪邸です。

 1948年f昭和二十三年)、日本はまだ戦後の混乱低迷から抜け出せないでいました。この状況を憂れいたのが二十八歳だった三代目三輪善兵衛です。これからは若い者が中心にならなければいけないと考えた三代目は、東京青年会議所を創立して自ら初代会頭に就任します。他にも第六代日本青年会議所会頭、第六代日本橋クラブ会頭などにも就いています。

 三代目は放送が始まったばかりのテレビに着目して、積極的にスポンサーとなりCMを流します。
それが「ワッ、ワッ、ワッ、輪が三つ.‥」だったのです。



 ところでこれまで社名が「ミツワ石鹸」であるかのような書き方をしてきましたが、実は「ミツワ石鹸」となったのは1964年(昭和三十九年)からで、それまではずつと「丸見屋」でした。

 この老舗は、世の中の流れについていけないようなところがあったために吸収合併という形で、倒産してしまいました。そうすると人々は一斉にミツワ石鹸の買占めに走りました。この会社にはファンが多かったのがこれで分かりました。

 今回のこの一点はセルロイド製の石鹸箱とともに、石鹸そのものも入っているという珍しい品です。
ミツワ石鹸の倒産は1975年(昭和五十年)の話ですから、既に三十年以上が経っています。それどころか社名が「丸見屋」ですので、1964年(昭和三十九年)以前の品物だと分かります。そのような品物が残っていたというのには驚きです。しかも状態も良くて、まるでつい最近製造されたもののように見えます。

 このようにミツワ石鹸と三輪家は、直接的間接的にセルロイドと関わりあってきた歴史を持っているのです。



著者の松尾 和彦氏は歴史作家で近世、現代史を専門とし岡山市に在住する。


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