セルロイドサロン | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第73回 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松尾 和彦 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
青い目をしたお人形の真相は | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
青い目をしたお人形は アメリカ生まれのセルロイド 日本の港に着いた時涙を一杯浮かべてた 私は言葉が分からない 迷子になったら何としょう 優しい日本の嬢ちゃんよ 仲良く遊んでやっとくれ 仲良く遊んでやっとくれ 野口雨情の名曲は誰もが口ずさんだ経験をお持ちでしょう。また1927年(昭和二年)にアメリカからお人形が贈られた話も良く知られています。 この二つの話がいつしか一緒になって「アメリカから青い目をしたセルロイド製のお人形が贈られて来たので歌が出来た」と思われています。ところが実際は全く違うのです。この話について説明することといたしましょう。 宣教師のシドニー・ルイス・ギューリック博士は、1888年(明治二十年)から二十五年に渡って日本で過ごした親日家です。その博士が心を痛めたのは移民制限、排日暴動などで日に日に悪化していく日米関係でした。「このままではいけない」と考えた博士の耳に一つの歌が聞こえてきました。 野口雨情の「青い目のお人形」を発表したのは、雑誌「金の船」1921年(大正十年)十二月号でした。この歌は日本国内で歌われただけではなくアメリカでも歌われました。そのきっかけとなったのが二年後に起きた関東大震災です。世界中が救援のための募金を行いました。中でもアメリカからの金額が一番多かったのですが、募金を呼びかける際に歌われたのが「青い目のお人形」でした。 この曲を耳にしたのが日米友好のために奔走していたギューリック博士です。子供の頃から友好の心を持っていれば、大人になっても仲良くすることが出来ると考えていた博士は、この曲によりお人形を、それも「青い目をしたお人形」を贈ろうと考えました。 1927年(昭和二年)の雛祭りに間に合うようにと贈られてきた全部で一万三千体にも及ぶ「青い目のお人形」の受け入れ窓口となったのが、渋沢栄一でした。経済人としては既に十年前に引退して社会事業家となっていた八十六歳は、受け入れのために東奔西走します。 この時に贈られたお人形はセルロイド製ではなく、ビスクドール(二度焼きした素焼きの人形:ビスケットも二度焼きしたという意味がある)だつたのです。 パスポートも持ってやってきたお人形を迎える時に歌われた歌を作ったのは、童謡「ふるさと」の作者として知られる高野辰之でした。 |
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一、 | 海のあちらの友達の まことの心こもってる かはいいかはいい人形さん あなたをみんなで迎へます |
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ニ、 | 波をはるばる渡り来て ここまでお出での人形さん さびしいやうにはいたしません お園のつもりでゐらっしゃい |
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三、 | 顔も心もおんなじに やさしいあなたを誰がまあ ほんとの妹弟と 思はぬものがありませう |
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こうして大歓迎を受けたお人形は日本各地の学校に配られていったのです。 ギューリック博士は返礼は不要だと断りましたが、日本人形を贈ろうということになりました。その結果四十七都道府県と、東京、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸の六大都市、さらに当時は日本領でした樺太、朝鮮、台湾、日本が既成事実を作ろうとしていた関東州(後の満州:現中国東北部)、そして大日本に、それぞれ相応しい名前をつけて贈ることとなりました。 大卒の初任給が四十円だった時代に、ミス大日本は三百五十円、他のミスにも二百五十円がかかった豪華な日本人形を贈ったのです。こちらも日本に来たお人形と同じように大歓迎を受けました。 このようにして迎えられたお人形ですが、歓迎した子供達が大人になった頃に大変なことが起こりました。1941年(昭和十六年)十二月八日(日本時間)、日本がハワイオワフ島の真珠湾に奇襲攻撃を行い、アメリカとの戦争が始まったのです。 自宅でこの大ニュースを聞いた時、ギューリッタ博士は「何かの間違いだ」と言葉を失ったといいます。 戦争中に日本では英語が敵性語だとして禁止されましたが、この影響が思いもかけないところに及びました。何と「青い目のお人形」までが「敵国のスパイだ」として焼かれたり、竹槍で突かれたりしたのです。 1943年(昭和十八年)二月十九日付の毎日新聞には「青い目をした人形憎い敵だ許さんぞ仮面の親善使」という記事が載っています。 受難は人形だけでなく野口雨情にも及びました。「青い日をしたお人形は」や「赤い靴履いてた女の子」の歌を歌うのは禁止され、雨情は1944年(昭和十九年)一月、軽い脳溢血で倒れた後の病み上がりの身で妻と八人の子供とともに栃木県河内郡姿川村鶴田に疎開しました。 今でも誰もが歌っている歌の作者ですから、さぞや裕福だったのかと思いきや家族は顔がうつるような薄い雑炊をすするのがやっとでした。印税制度が確立していなかった上に詩人という戦争には無用な存在、しかも縁もゆかりも無いよそ者として白眼視されたのです。 雨情は日に日に弱り、翌年の一月二十七日にひっそりと世を去りました。まだ六十三歳で没した詩人の遺体は荷車に載せられて火葬場に運ばれたのですが、家族には葬儀代も残っていませんでした。既に忘れ去られていた存在であった雨情の死は、ほとんど伝えられませんでした。 同じ1945年(昭和二十年)の十二月二十一日にギューリック博士もアイダホで八十五歳で亡くなったのですが、こちらはニューヨークタイムスに大きく掲載されました。 もう一人の主役渋沢栄一は、1931年(昭和六年)十一月十一日に九十一歳という高齢で没しました。他の二人と違って、その後のお人形の悲劇を知らなかったのは幸いだったと言えます。 焼かれたり壊されたりしたと思われていた青い目のお人形ですが、自宅や倉庫などに隠した人も多くいました。おかげで今でも数多く残されています。皆様のお近くにもあると思います。しかし小学校に贈られたものですから、今でも保存しているのは多くが小学校です。そのため関係者以外の目に触れるのは稀になっているのが現状です。参考までに各地に贈られたお人形の数と現存数とを書いておきます。(数字は贈られた数、現存数の順番) |
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それでは日本から贈られた答礼人形は、どうなったのでしょうか。こちらは戦争中も大事に保管されていました。おかげで今でも数多くが残されています。こちらについても述べることといたしましょう。(保管場所、名前、エピソードなど) |
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このように実際は「青い目のお人形の歌」の方が先にあって、その歌がきっかけの一つとなって「青い目のお人形」が贈られてきたのが真相です。またセルロイドは一切関係がありません。 それでは「青い目をしたアメリカ生まれのセルロイド人形」は、一体何だったのでしょうか。これにつきましてはキューピー人形だとも言われていますが、これも単なる俗説のようです。 実際のところは、その頃に出回り始めた「青い目のセルロイド人形」を見た野口雨情が、語呂が良く親しみもあった「アメリカ生まれ」としたのが真相のようです。 |
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著者の松尾 和彦氏は歴史作家で近世、現代史を専門とし岡山市に在住する。 |
連絡先: | セルロイドライブラリ・メモワール 館長 岩井 薫生 電話 03(3585)8131 FAX 03(3588)1830 |
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