セルロイドサロン
第77回
松尾 和彦
代役から主役へと昇格したセルロイド、消えたセルロイド


 演劇の世界では急な病気などで主役が降板してしまい、やむなく立てた代役が思いもかけない好演を見せ、そのまま主役へと昇格することがあります。オードリー・ヘプバーン、マリリン・モンローなどは代役から昇格した例として知られています。



 セルロイドが象牙の模造品、つまり代役であったのはよく知られていることです。主役として使われていた象牙は、ビリヤードボールとして加工する前に二年間も水に漬ける必要があるという厄介な材料でした。さらに象三頭につき二人と言われるほど数多くの犠牲を伴いました。加えて重心が中心部に来ないために安定しない、表面が欠けやすいので一年に一度は磨きを欠ける必要があるなど取り扱いにくいものでした。そして何よりも、一本の象牙から最大でも八個しか取れないために価格が高いという致命的な欠点がありました。

 これでは幾らビリヤードボールに最適であるとしても一般に普及するのは無理があります。そのために代役を必要とした結果ハイアットがセルロイドを考え出したと言われています。

 ただしこの代役は主役にとって代わる存在とはなりえず、現在では主にフェノール樹脂が使われています。



 セルロイドは着色加工成型が容易であったために象牙だけではなくて鼈甲、珊瑚、角などの代役ともなりました。そのため櫛、笄、簪などに使われるようになりました。本鼈甲は高価な上に虫に食われたりするする可能性がありますが、セルロイドはそのような弱点を克服しています。そのため今でもセルロイド製の櫛は生き残っています。



 初期の頃のセルロイドはコルセットとして使われました。それまでは鯨の骨や金属製でした。重たかったり割れやすかったり洗濯が難しかったりしたのですが、そのような悩みを解決したのがセルロイド製のコルセットでした。

 ところが第一次大戦が思いもかけない結果をもたらせました。セルロイドは火薬に、芯に使っていた金属類は武器となったのです。こうしてコルセットは瞬く間に姿を消しました。また主にアメリカで女性も兵隊に行きました。彼女達は復員後、二度と窮屈なコルセットをはめようとはしませんでした。

 こうしてセルロイド製のコルセットは主役となるのも早かったが、消えるのも早いという運命をたどりました。



 セルロイドが主役となったものの代表は何といっても洗面器でしょう。ブリキの洗面器は今ではほとんど見かけることもなくなりましたが、かつてはこちらが主役でした。しかし日中戦争の激化に伴い金属不足に陥ると代役としてセルロイドが使われるようになりました。たちまちのうちに拡がったセルロイド洗面器は主役の座に踊り出て戦争が終わってからも譲りませんでした。そして現在ではセルロイドから代わったプラスチックス製が主役となっています。



 万年筆も主役となった代表と言えましょう。エボナイト製であった時代には黒色だった軸がカラフルなものに変わりました。特にジェードグリーンと言われる翡翠のような緑色の万年筆の登場は革命的でした。着色加工が容易なセルロイドは様々な色の万年筆を産み出します。

 この頃の話ですが、グランドキャニオンに落として丈夫さを証明するというデモンストレーションを行っています。代役が主役となるためには、このようなことまでしないといけないのです。

 オレンジ色、赤、青、紫など総天然色のセルロイド製万年筆は、1920年代に代役として登場するやたちまちのうちに主役へと昇格して二十年以上に渡って主役の座を守り続けました。



 ピンポンはテーブルテニスと呼ばれていた頃にはコルク玉だったために、大変に時間がかかるものでした。何しろ一点を挙げるまでに一時間を要するほどラリーが続いたという記録が残っているほどです。

 この状況を一変させたのがセルロイドです。そしてこの主役に取って代わる代役は未だに現れていません。もしセルロイドが発明されていなかったら、ピンポンがこれほどまでに普及することは無かったでしょう。



 玩具の世界でセルロイドが活躍していた時期は意外に短くて、明治の終わりから昭和三十年代頃までの約五十年間です。

 最初に現れたセルロイド玩具は風車のような切り張物でした。これなどは紙の代役として使われた例です。

 セルロイド玩具で最初の大ヒット作品となった吹き上げ玉は針金と護謨玉との組み合わせだったのですが、これをセルロイド製に代えたところ爆発的に売れることとなりました。

 しかし何と言ってもセルロイドが主役となったのは吹き込み成型法によってキューピーなどの人形が作られるようになってからでしょう。大きさの割りに軽いし、手触りが柔らかく、様々な色を楽しむことが出来たセルロイド人形は一家に一個は必ずあるほど普及しました。セルロイドが完全に主役となったのです。



 文房具類特に筆箱、裁縫箱などの箱物類は完全に主役となりました。材木をくり抜いたり薄板を折り曲げたりして作る木箱の加工は手間のかかる職人仕事です。今売られている木箱類がかなりの値をつけているのも仕事が難しいからです。

 そこへ現れたセルロイド製の箱は量産が利くことから求めやすい価格となりました。またカラフルですので男の子にも女の子にも好みの柄が作れます。このような特徴を備えていましたので主役となりえました。

 また男の子にとっては割れたりして使い物にならなくなってからも楽しみがありました。金属製のキャップなどに詰めて熱してロケットのように飛ばすのです。ただしこれで空き地や家を燃やしたりしたので禁止となりましたが。



 グリーティングカードは元はと言えば象牙を紙状に削ったものでした。これでは幾らなんでも高価すぎることから代役として考えられたのがセルロイドでした。そして十九世紀の終わりから二十世紀の初めにかけての約二十年に掛けて主役の座を渡すことはありませんでした。そのためセルロイド製のグリーティングカードは様々なものが今でも残されています。



 セルロイドと言えども万能選手ではありません。中には代役のまま終わったもの、代役にもなりえなかったものなどもあります。

 日中戦争が激しさを増している時期であった1938年(昭和十三年)五月六日の大阪朝日新聞夕刊に「歯磨きのチューブ」「足袋のコハゼ」「蚊帳の吊り輪」「襖や取っ手の引き手」などがセルロイド製に取って代わるとの記事が掲載されています。

 これらがどのようになったかを見ていくことにしましょう。



「歯磨きのチューブ」は鉄よりも不足しがちな錫製です。そのためにセルロイドを代役にしようとして試作品も出来たとあるのですが、今ではその試作品を作ったのがどこの会社であったかも分かりません。ライオンと中山太陽堂が有力候補なのですが、これも推測の域を出ません。



「足袋のコハゼ」はアルミニウム製が主役でした。アルミニウムは飛行機に使われる金属ですので軍事優先の時代には特に不足しがちな金属です。このコハゼは代用品をかなり作ったようで写真などの資料が残されています。

 この代役はあまり活躍できなかったようで直ぐに消えました。そのために金属製のコハゼを六枚から五枚、四枚さらには三枚に減らしてしのぶということにしました。今ではほとんど姿を見かけることもありません。



「蚊帳の吊り輪」は、かなり出回ったようで現存しているものを見かけることが出来ます。ところが蚊帳そのものが急速に姿を消してしまいましたので主役となりえないままに終わってしまいました。



「襖や取っ手の引き戸」に至っては試作品を作ったのかどうかの確認さえ出来ません。これなどは代役ともなりえなかった例です。



「画鋲」は真鍮製ですので銃弾の薬莢となってしまいました。そのためにレコードを打ち抜いて画鋲の頭としました。ターゲットとなったのはジャズやロックのように「敵性音楽」とされたもの、恋愛物のように「時局に相応しくない」とされたものなどです。

 戦争が終わると薬莢は元の画鋲になりましたが、それだけではとても足りませんので新しい硬貨が生まれました。それが五円玉です。時勢の変化が思いもかけない形で現れた例です。

 ところでこの代役は主役に思いもかけない変化を残しました。二重画鋲といって横から見ると真ん中辺りに線が入っているのが見える画鋲があります。これはレコードを打ち抜いたセルロイド製の画鋲が一枚では強度不足だったために二枚重ねにしたことの名残です。



 初期の頃のセルロイドは義歯の歯床として使われました。それまでの木材性と比べて軽くて清潔で使いやすかったのですが、熱いスープやコーヒーを飲むと柔らかくなってしまう上に、口の中が樟脳の匂いがするという欠点がありました。そのために直ぐに消えてしまった代表となりました。



 このようにセルロイド製品は数多くの分野に使われたために主役となりえたもの、主役とはなったが姿を消したもの、代役のままで終わったもの、代役にもなりえなかったものなど様々な運命をたどりました。これらの他にもセルロイド製品がたどった運命をご存知の方がいらっしゃいましたらご連絡をお願いします。



著者の松尾 和彦氏は歴史作家で近世、現代史を専門とし岡山市に在住する。


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