セルロイドサロン |
第78回 |
松尾 和彦 |
ALWAYSの時代とセルロイド |
西岸良平が三十五年に渡って連載している「三丁目の夕日」を映画化した「ALWAYS 続三丁目の夕日」が大変な評判となっています。何しろ公開二日にして観客動員四十五万人、興行成績五億円を記録して、映画館によっては終映後に全員が立ち上がってのスタンディングオベーションという、映画では珍しい現象が起きています。前売り券の発売枚数からして最終的な観客動員数は三百万人に達するという、本年度はもちろんのこと、日本映画史上でも一、二を争う大ヒット作になろうかという勢いです。 この作品にセルロイドハウス横浜館は小道具として所蔵品約十点を貸し出しています。今回は、このALWAYSの時代を振り返ってセルロイドがどのように関わっていたかを見ていきたいと思います。 1959年(昭和三十四年)五月、日本に一つの朗報がもたらされました。1964年(昭和三十九年)に開催される第十八回夏季オリンピックの会場として東京が選ばれたのです。 1940年(昭和十五年)に開かれるはずだった第十二回オリンピックは、盧溝橋事件の勃発により返上、ヘルシンキさらにロンドンでの開催も検討されましたが戦争により中止。ロンドンで開催される予定だった第十三回も戦争により中止。同じロンドンで開催された第十四回には日本はドイツとともに招待されずに不参加。1960年(昭和三十五年)の第十七回にも立候補したものの僅か四票しか取れずに予備投票の段階で惨敗。 このような苦い過去を乗り越えての決定であっただけに日本中が沸き立ちました。しかもデトロイト(十票)、ウィーン(九票)、ブリュッセル(五票)を押さえて三十四票という圧倒的多数で制したのです。 現在、景観が問題となっている日本橋の上の高速道路建設が始まり、東海道新幹線、羽田と都心を結ぶ首都高速道路も建設されることとなり、高度経済成長に繋がるオリンピック景気が始まりました。三波春夫の歌う東京五輪音頭が街中に溢れ、日本中の学校という学校で体育祭の時に踊るという少し異常な事態となりました。 踊らされるほうの子供達は比較的冷静な目で見ていて「オリンピックがあるのはまだ先の話だろう」 「東京であるオリンピックのために、どうして○○の俺達が踊らないといけないんだ」と、浮かれている大人たちに軽い軽蔑の念を持ったものです。 大人たちが浮かれていたのは戦争体験がまだ生々しかった時代に敗戦国日本が、戦勝国に勝ったという喜びがあったからです。この時に東京に負けた三都市は何れも今に至るまでオリンピックを開催していません。 大人たちの敗戦ショックは根強いものがあって力道山に熱中したのも現れの一つでした。レスラーとしては小柄な部類に入る力道山が、大きな外国人レスラーの反則攻撃に耐えるうちに流血する。アナウンサーは「最後までお伝えすることが出来ないかもしれません」と絶叫する。すると伝家の宝刀空手チョップを繰り出すと形勢逆転してカウントスリーが入りレフェリーが力道山の手を挙げると同時に放送が終了する。 このような「筋書きのあるドラマ」をまだまだ高嶺の花であったテレビ(もちろん白黒)の前に集まって熱狂したものです。 その頃、三丁目の世界の人々は高速道路、新幹線などの建設を聞いて「まるで二十一世紀みたいだ」と目を丸くしました。二十一世紀になると凄いことになると思ったのですが、いざ来てみると別にどうってことないと思われたことでしょう。 三丁目の子供達はメンコ、ベーゴマ、ビーダマなどに熱中しましたが、その顔は時としてお面を被っていました。セルロイド玩具が燃えやすいから危険だとして、デパートからは撤去されていましたが小売店ではまだまだ健在でした。ましてや子供達が行くような駄菓子屋や夜店で売っているようなおもちゃやお面などはセルロイド製だった時代です。 子供達の限られたお小遣いで買うことの出来るおやつはグリコのお菓子でした。他にもあったのにグリコにしたのは、もう一つのお楽しみがあったからです。言うまでも無く「おまけ」です。プラスチックも登場していましたが、まだまだセルロイドは健在でした。「おまけ」の自動車やオートバイ、電化製品などを手にして大人になると本物を手にするとの夢を持ったものです。 子供達も遊んだり食べたりばかりしていたわけではありません。きちんと勉強もしていました。文房具類には下敷き、筆箱、各種定規類、裁縫箱などセルロイド製品が溢れていました。これらを使って勉強をしていたわけですが、割れやすいという欠点がありました。そのため線香を使って穴を開け毛糸でつないで使っていたものです。 そしてどうしようもないほどになってもセルロイドならではの楽しみがありました。細かく砕いたセルロイドを金属製の鉛筆キャップに詰めてペンチなどでふさいだ後に炎で熱するのです。するとまるでロケットのように飛んでいくのです。もちろんこの危険な遊びは禁止されていました。その当時まだ多かった草茫々の空き地や倉庫などに落ちて火事となることもあったからです。 大人になってからの遊びといえばパチンコ、麻雀でした。そのパチンコの化粧板としてセルロイドは、まだ現役選手として活躍しています。また当時の麻雀牌の多くはセルロイド製でした。 当時は高嶺の花で一部の限られた人々の娯楽であったゴルフのネックソケットとして使われているセルロイドも現役選手の一つです。 この時代を描いた「ALWAYS 続三丁目の夕日」にセルロイドハウス横浜館も協力しています。堤真一と薬師丸ひろ子の夫妻が16ミリフィルムを見るシーンがありますが、そこに出てくるメリーゴーランドは昭和二十年代に製造された本物です。 その頃には赤ちゃんが生まれると誰かしらがメリーゴーランドを贈ってくれたものです。ゼンマイ式でセルロイド製だったものが、何時の間にか乾電池式でプラスチック製となりました。 この映画の監督はリアルさを追及する人でワンカットたりともおろそかにしません。それゆえ人々を感動させる名作が誕生したのですが、スタッフの苦労は並大抵のものではありません。持道具係の方も散々駆けずり回ったのですが、セルロイド製のメリーゴーランドは壊れやすく、形的にも保管が難しいためにあきらめかけた頃に協力することが出来て喜ばれました。 この他にも踊り子役を演じる小雪の化粧用のコンパクトなどの小道具といったものを約十点ほど貸し出していますので、この映画を御覧になられるときには注目してください。 エンディングでは美術協力としてセルロイドハウス横濱館の名前も出てきますので、こちらのほうも注意して御覧になってください。 |
著者の松尾 和彦氏は歴史作家で近世、現代史を専門とし岡山市に在住する。 |
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