セルロイドサロン
第8回
松尾 和彦
戦争とセルロイド
 六月の終わりから七月、八月、そして九月にかけては戦争に係わり合いのある日が多い。先ず六月二十五日(1950年)は朝鮮戦争が勃発した日であり、七月七日(1937年)は日中戦争のきっかけとなった虚溝橋事件が起きた日、七月二十七日(1953年)は三年一ケ月も続いた朝鮮戦争の休戦調停が調印された日、明くる二十八日(1914年)は第一次大戦が勃発した日、八月一日(1894年)は日清戦争の宣戦布告がなされた日(戦闘は既に半月も前から始まっていた)、八月十五日(1945年)は第二次大戦が終了した日、九月三日(1939年)は第二次大戦が勃発した日、そして九月十八日は満州事変のきっかけとなった柳条溝事件が起きた日である。
 セルロイド産業も他の産業と同じように、これらの戦争によって良きにつけ悪しきにつけ多大な影響を受けてきた。
 日清戦争の結果、台湾が領土となったことから樟脳が日本の特産品となり、セルロイドの原料が確保されることとなり、第一次大戦によって生産量が飛躍的に伸びたが、戦後には深刻な不況に見舞われ、満州事変によって回復したのだが、日中戦争が激化していくにつれて打撃を受け、第二次大戦のために壊滅したが、朝鮮戦争のおかげで回復した。
 簡単に言ってしまえばこれだけなのだが、幾つかの時期に分けてセルロイド産業が戦争によってどのような影響を受けてきたかを見ることにしてみよう。
1、 日清戦争以前
 日本にセルロイドが最初にやってきたのは1877年(明治十年)のことだが、これが何を原料として、どのような工程によって製造されたものかについては全く知らされていなかった。そのためかセルロイドに対して興味は持ったのだが製造するまでには至らなかった。その頃、台湾に豊富に繁殖している樟樹に目をつけたヨーロッパ諸国は大量に輸入するようになった。それというのもセルロイドを製造するためには生地の四分の一にも相当する大量の樟脳を必要とする上に、樟樹は中国南部から台湾、日本の南部にしか分布していないからである。まさかセルロイドの原料になるとは考えていなかったために古木を盛んに伐採して樟脳を輸出していたので資源は減退する一方であった。
2、 日清戦争から第一次大戦まで
 1894−95(明治二十七、八年)の日清戦争の結果、台湾が日本の領土となるとともに日本政府は樟脳を専売品として保護育成することになった。当時の小学校用国定教科書の中に「台湾名物何々ぞ 砂糖 樟脳 ウーロン茶」と言われたように台湾の樟脳は世界の生産額の90%を占めていたので価格を自由にコントロールすることが出来た。事実、1899年(明治三十二年)の八月には一ポンドあたり43.5セントだったものが、同じ年の十二月には51セント、1903年(明治三十六年)の一月には55−60セントとなっている。そのためアメリカでは対抗策として台湾と気候が似ているフロリダに樟樹を植えたのだがミドリイラガの一種によって葉を食い荒らされてしまって失敗した。
 日本では既に明治の初めから硫酸の製造が行われていて製造過剰気味でさえあった。硝酸も製造されていた。そこへもってきて樟脳をほぼ独占出来るようになったのだから、セルロイド生地の国産化のための条件は総て揃った。
 セルロイド生地の製造は既に1889年(明治二十二年)に西沢幾次郎が昇光社を設立したときに始まっていた。また千種稔、高木尚輔、浦山律等も挑戦したが学術的知識の不足により事故が続発して立ち消えとなっていた。
1898年(明治三十一年)に開かれた共進会全国品評会で国産セルロイド生地で進歩賞を受賞した三輪善兵衛は、五年後の内国勧業博覧会にもセルロイドを出品したが、やがて手を引いて石鹸の製造に専念するようになった。
 このようにまだまだ本格的な製造にはほど遠い状況であったが、打開するきっかけとなったのはやはり戦争であった。1904−05年(明治三十七、八年)の日露戦争は、形の上では日本の勝利であったが莫大な戦費の埋め合わせを行うために公債発行や外資導入を行った結果、資金の海外流出を招く、その結果為替相場が悪化するという悪循環を招いた。しかし日本商品の輸出を伸ばし、樟脳の輸出も急激に上昇するという好結果も見られた。その当時、樟脳の輸出はイギリス、フランス、ドイツ、アメリカに限られ、セルロイドの輸入も四ケ国に限られていた。そのためセルロイドを国産化しようとの意欲が起こってきたのである。
 こうして1908年(明治四十一年)に三井と三菱が相次いでセルロイド会社を設立した。「網干港のセルロイド会社の煙突は 太くて円くて短くて エエ 吐き出す煙は 真っ黒ケノケ」「圧搾室の屋根裏走行クレーンのモーターと歯車の交響音 モウカランモクカラン モウカラン 水圧ポンプのスチームエンジン運転音 ダンダンビンボ ダンダンビンボ ダンダンビンボ 気缶室エコノマイザーの送風機のスチームエンジン排気音ソーン ソーン ソーン」などと皮肉られるように品質が劣っていたものを、次第に技術的問題を解決して優秀な生地を製造するようになっていったが、内需の小ささという問題はどうしようもなかった。
3、 起死回生をもたらした第一次大戦。そして戦後の不況。
 このように手詰まり状態であった日本のセルロイド業界はヨーロッパ全土が戦場となった第一次大戦によって飛躍的に成長する。1914年(大正三年)には496トンであったセルロイド生産量は翌年から1167トン、1804トン、2201トン、2293トンと伸びていき二十社近くものセルロイドメーカーが設立された。ヨーロッパのセルロイド生地メーカーは一斉に火薬製造工場に変身し、あおりを受けた玩具メーカーも生産をストップしたために、戦場とならなかった日本に注文が殺到した。その上、セルロイド価格も上昇したために零細な業者でも一日百円の利益を上げるほどだった。当時の大卒の初任月給が四十円前後であったことを考えると、セルロイド業者がいかに繁盛していたかがわかる。
 しかし戦争が終結すると深刻な不況に見舞われることとなった。セルロイドの生産量で見ても1919年(大正八年)の1491トン、翌年の977トンと激減したために各社の経営は苦境に陥った。そのため政府の指導のもとに主要八社が合併して大日本セルロイド株式会社(現ダイセル化学工業)が誕生した。
 この不況がいかに深刻なものだったかはセルロイド生地の輸出金額が1919年(大正八年)に二百二十一万五千五百七十六円だったのに対して、1921年には二十八万一千六百五十一円、同じく加工品は1920年の八百六十四万三千九百八十三円に対して1921年が二百九十六万九千三百六十九円と激減していることを見ると良くわかる。
 その後、1923年(大正12年)の関東大震災と、1927年(昭和二年)から1931年にかけての世界同時不況、金融大恐慌、イギリスの金本位制の停止、アメリカの国税改正案などによってセルロイド業界は更なる苦難の時代を迎えることとなった。(ただしセルロイドの生産量自体は着実に伸びていて1927年には国産セルロイド玩具が生産額で世界第一位を記録している。)

4、 満州事変から第二次大戦終了まで
 このような状況を打開したのはやはり戦争だった。満州事変が勃発すると内外の需要は増大していき1937年(昭和十二年)のセルロイド生地生産量は12760トンと世界の生産量の40%を占めるほどであった。
 その頃、アメリカで自動車が大衆化するとともに事故も多発するようになりガラスの破損に対して重大な関心がもたれるようになった。破損を防ぐために二枚の板ガラスの間に透明なセルロイド生地をさしはさんだのだが、絶対に異物の混入があってはならない、厚みが一定していないといけないという難しい条件があった。日本の優秀なセルロイドはこの条件をクリアーしてアメリカの市場に進出していった。
 またイギリスの食卓用ナイフの柄への進出は目を見張るものがあり1934年(昭和九年)には四年前の十倍以上に相当する百十七万八千三百十ポンドをイギリスに輸出しているが、これはイギリス市場の60%を占めていた。
 日本国内においては軍用写真への需要が大きく、「菊フイルム」「さくらフイルム」「富士写真フイルム」などの国産フイルムが生産されるようになった。
 こうして1933年(昭和八年)以降、日本は世界一のセルロイド生産国となり四割以上が日本で作られた。
 日中戦争の激化、それに続く太平洋戦争によってセルロイド業界も戦時色を強めていき火薬工場などへ転用されていった。当時の需要は軍需用が三分の二を占め、残りは官需用と輸出用で、民需はゼロであった上に、企業整備が断行され加工業者が十分の一に削減されてしまった。またセルロイド工場は軍事拠点でもあるので空襲の目標となった。こうして壊滅的な損害を受けた上にセルロイド工場は戦後の一時期、民間兵器賠償工場として指定された。そのため極端なまでに衰退したのだが1948年(昭和二十三年)以降は、インド向け腕輪という需要が加わり順調に回復していった。そして1950年(昭和二十五年)に朝鮮戦争が勃発するとセルロイド業界も他の産業と同じように活況を呈した。さらに民間兵器賠償指定工場解除という追い風も加わりセルロイド産業は再び好調になったのだが、またまた苦境に陥らせることとなったのも戦争中に開発された新しいプラスチック類だった。戦場にあっては燃えにくいということは絶対条件であったために、燃えやすいという欠点を持つセルロイドは次第に地位を失っていくこととなった。こうして各社が次々に撤退していき最後に残ったダイセル化学工業も1995年(平成七年)から生産を中国に移し、かつて世界一だったセルロイド生地生産の歴史は完全に閉じられた。
このようにセルロイド産業は戦争によって栄え、戦争によって衰えていったのだが、このようなことはもうあってはならないし、またそのような時代が再び来ることを望んでいる人もいないであろう。
著者の松尾 和彦氏は歴史作家で近世、現代史を専門とし岡山市に在住する。

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