セルロイドサロン
第83回
松尾 和彦
横浜とセルロイド


 セルロイドハウスのある横浜といいますと、どのようなイメージをお持ちでしょうか。多くの方はエキゾチックな港町とか、港みらい21地区とか、赤レンガ倉庫とか、中華街などを思い浮かばれることでしょう。でもそれらは何れも開港後の横浜です。横浜は、そのような近代的な顔ばかりではなく、もっと古い顔も持っているのです。



 セルロイドハウスのある港北区は面積人口ともに横浜で最大です。ということは住みやすい場所だということになるわけで、それを証明するかのように「菊名貝塚」、「山王山遺跡」など縄文時代の早期には既に人が住んでいました。  

 また横浜全体に目を移せば、もっと歴史が古く「矢指谷遺跡」・「北川貝塚」など二万二千年ほど前の旧石器時代の遺跡が二十五ヶ所も確認されています。

 律令時代になりますと都筑区にあります「長者原遺跡」のところに役所が置かれました。この遺跡は国道246号線に面していることから、この道が古東海道であったと推定されています。

 奈良時代以降は「弘明寺」、「宝生寺」などのように多くの神社仏閣が作られています。これはそれだけに見合う信者がいたということで、その頃には既に多くの人々が住んでいた証です。

 鎌倉時代となると幕府が近かったことから大規模な開発が行われました。特に新横浜駅周辺と六浦湊とが開かれました。また「金沢文庫」と「称名寺」が建立されたのも、この時代です。

 横浜という名前が初めて出てくるのは一四四二年(嘉吉二年)のことで、港北区の小机城が築かれたのもこの頃です。室町戦国の時代には小田原を本拠地とした後北条氏が支配したことから安定した時代を過ごしました。

 江戸時代となると「神奈川宿」、「保土ヶ谷宿」、「戸塚宿」の三つの宿場がおかれ、米倉家の六浦藩一万七千石が現横浜市域で唯一の藩として存在しました。



 しかし横浜が横浜らしくなるのは、やはり一八五八年(安政五年)に日米修好通商条約が結ばれて開港してからでしょう。開港によって半農半漁の寒村が近代的な港湾貿易都市へと変貌したのです。

 横浜は日本で最初のものが多い場所として知られています。最初の鉄道が新橋―横浜(現桜木町)であったのは有名ですが、近代病院、クリーニング、牛乳、アイスクリーム、マッチ、石鹸、オルガン製造、レストラン、写真館、ビール、テニス、水道、ガス灯、新聞などは何れも横浜が最初です。



 いかにも横浜らしい建物がキング(神奈川県庁)、クイーン(横浜税関)、ジャック(開港資料館)と呼ばれる三つの塔です。このうちジャックの中庭にある「たまくすの木」は、ペリーが横浜に来航した折に描かれた錦絵の右のほうにあるのと同じ木です。このような歴史があるからこそ、日本で最初が多くなるわけです。



 ではセルロイドはというと、残念ながら日本で最初ではなくて二番目です。でも一番になっていた可能性が大だった二番です。
 日本で最初のセルロイドは、一八七七年(明治十年)に神戸の外国人居留地二十二番館に輸入されたものであるのは有名な話です。この時のセルロイドはドイツのものだと言われていますが、私は当時のドイツの経済状況、ドイツとアメリカとの貿易量の差、二十二番館の性質などからしてアメリカ製だったのではないかと考えています。

 一八七七年という年は鹿児島を中心とする九州一帯で西南戦争が起きていましたので、本来ならば横浜に向かう船の多くが神戸に向かいました。二十二番館のセルロイドも横浜行の荷物だったのではないでしょうか。しかし今となっては確かめる術がありません。

 横浜に輸入された日本で二番目のセルロイドは、神戸に輸入された翌年に外国人居留地二十八番館チップマン・アンド・ストーン商会にやってきたものです。この会社は後に象牙様セルロイド棒を輸入しました。これを京都の大工原藤吉が掛け軸の芯棒に加工しています。また自動車の輸入を日本で初めて行ったのもこの会社です。

 横浜の外国人居留地でもう一つ忘れてはいけないのが、ドイツのブルール商会があった二十四番館です。一八八六年(明治十九年)に、この会社にドイツからセルロイド櫛が百ダース輸入されたのが、日本で最初のセルロイド櫛です。横浜には、このような日本最初もあるのです。

 横浜での外国人居留地の何番館の数字は、現在の山下町の番地と一致しています。ですから二十八番館は山下町二十八番地、二十四番館は山下町二十四番地です。それぞれの場所がどのようになっているかはご自分の目でお確かめになってください。



 その後、セルロイド加工は東京、大阪の下町で盛んになりました。大阪で日用品が作られたのに対して、東京では人形などの玩具類が製造されました。どこから輸出されたかというと横浜からです。



 横浜は、このようにセルロイドと深く関わってきましたが、セルロイド玩具がほぼ姿を消してしまった一九七八年(昭和五十三年)に思いもかけない歌がヒットしました。

 松本隆作詞、筒見京平作曲、太田裕美歌の「ドール」は一番で「横浜生まれのセルロイド 心がないからセルロイド」と歌ったかと思うと、二番では「都会に生きてセルロイド やっぱりあなたもセルロイド 横浜育ちのセルロイド 頬紅剥がれたセルロイド」と歌っています。

 横浜と聞くと「セルロイド」と思ってしまうから生まれたのでしょうか。



 横浜に行かれました折には、このようなセルロイドとの歴史も思い起こされるようにしてください。




著者の松尾 和彦氏は歴史作家で近世、現代史を専門とし岡山市に在住する。


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