セルロイドサロン
第9回
松尾 和彦
樟脳とクスノキ
 セルロイドを製造するときの重要な原料の一つが樟脳で、重量比にしてセルロイドの四分の一は樟脳で占められている。そして樟脳は現在では松脂から採られるテレピン油から合成されているが、かつてはクスノキを原料とする天然樟脳が主流で世界一の生産国が日本であった。このクスノキと樟脳とについて見てみることとしよう。
クスノキについて
 クスノキはクスノキ科の常緑樹で本州中南部から四国、九州、沖縄、済州島、台湾、中国南部、インドシナに広く分布している。クスノキが多く見られる佐賀県では県の花、木をともにクスノキとしている他、兵庫、熊本、鹿児島の各県が県の木をクスノキとしている。
 古来から親しまれてきた木で宮崎アニメの傑作「隣のトトロ」に出てくるトトロの家もクスノキである。
 クスノキは漢字で楠と書くと思われがちだが、これは中国にあるタブノキて゛日本には自生していない。クスノキは樟と書かないといけない。その樟から採取されるために樟脳と呼ばれている。各地で名前がわからないためにナンジャモンジャと呼ばれているものにはクスノキが多い。
 クスノキの語源としては臭い木、くすぼる木、奇(くす)しの木、薬の木、朽ちずの木などがあると言われていてはっきりしないが、いずれも特徴を良く伝えている。
 クスノキと言えば巨樹になることが知られているが、事実環境省が選定した日本の巨樹十位(実際には同率十位が二本あるので十一本)までのうち一本を除いた総てがクスノキである。五十位まで広げても(これも同じ理由で実際には五十八本)半分以上の三十二本をクスノキで占めている。特に鹿児島県蒲生町の蒲生神社にある樹齢千五百年と推定される巨木は、幹周り二十四・二二メートル、高さ三十メートルという巨大さである。有名な屋久島の縄文杉が樹齢三千年と推定され、高さは同じだが幹周りは十六・一メートルでやっと十二位に顔を出しているのを見ると蒲生神社のクスノキがいかに巨大であるかがわかる。
 葉は互生、卵型、広卵形で長さ六ー十センチで常緑樹ではあるが葉の寿命は一年間で春に新葉が伸び出すと間もなく古い葉は全部落ちる。若葉は淡紅色、橙黄色から淡緑色に変わる。この葉と葉とが擦れ合う音が他の音を消す効果があるので、病院、図書館、美術館、学校など静穏が要求される場所によく植えられている。
 五月の終わり頃から花が咲き出すが、小さくて房状なので目立たない。花被片は六枚で雄蘂は十二本、秋に果実が黒く熟す。
 散孔材で芯材は黄褐色、紅褐色、木目はやや粗く、木理は交走することが多く玉杢などが現れるものがある。材はやや軽軟から中ぐらいで耐朽性が強い。古代にはこの特性と巨大になることから丸木舟に多く使われた。現代では建築用として内装材、社寺建築、建具、家具、器具、楽器、彫刻、木象嵌などに用いられている。
 しかしクスノキて゛思い出すのは何と言っても樟脳であろう。次には樟脳について述べてみるとしよう。
樟脳について
 樟脳と言えば現在では防虫剤としての用途が一番に思い出されるが、かつては霊薬としてリウマチ痛、かいせん、打撲傷、ねんざなどの治療に用いられていた。またカンフル剤の名前で知られているように強心剤として広く用いられている。
 歴史はギリシァ時代にまで遡るというがはっきりしない。日本での最初は、秀吉が朝鮮出兵を行ったときに薩摩藩が連れ帰った陶工が製造したものであると言われていて、鹿児島県東市来町美山には樟脳の碑が建っている。また薩摩半島には絹の道ならぬ樟脳の道がある。この樟脳の製造は薩摩藩お得意の圧制で支えられていたことを種子島に伝わる樟脳節が伝えている。
 樟脳じゃ 樟脳じゃと げしのはぎやるな わたしや 殿様のげちで焚く
 樟脳 焚かねば 租税がたたぬ 明日は処分じゃと ふで廻る
 楠がたゆれば 樟脳焚きややまる あとのひよこ木は 早ようふとれ
 甚平早よう行け 樟脳小屋むゆる 甚平近眼で 眼が見えぬ
 そしてこのように生産された樟脳によって年に二千両もの利益を上げたのだが、これも薩摩藩が得意とする密貿易であった。他にも熊本藩では専売品としてクスノキを畦や道の端に植えていたり、土佐藩でも利益を上げていたというから、明治維新は樟脳によって上げた資金によってなされたとも言える。
 クスノキ千キログラムから粗製樟脳(山製樟脳ともいう)六キログラムと樟脳油六キログラムとが採れる。その油からさらに精製された樟脳を再製樟脳と呼び、粗製樟脳と混ぜ合わせたものが一般に呼ばれる樟脳である。
 この樟脳から様々な会社が生まれている。藤沢薬品工業、塩野義薬品工業、日本テルペン化学などはすぐに樟脳と結び付けられるが、神戸製鋼、日本製粉、昭和石油、サッポロビールなどが樟脳と関係のあった会社だとは思わないだろう。
 一八七四年に神戸に設立された鈴木商店は元はと言えば樟脳を扱う小さな商店であった。だが大番頭の金子直吉によって飛躍的な大発展を遂げる。一度は樟脳相場を読み違えて店を倒産寸前にまで追い込んだが、一大商社へとのし上げたのも樟脳であった。
 樟脳の一大産地であった台湾に目をつけた金子は、政府の樟脳専売化をいち早く認める見返りとして反対する樟脳業者を説得した。そして一方では政府との樟脳油の販売権を獲得して欧米に輸出し莫大な利益を収めた。こうして鈴木商店は直営工場六、海外代理店三、関連会社二十を抱える一大商社となった。先ほど上げた会社はいずれも鈴木商店の関係会社である。
 三井・三菱をはるかに上回りスエズ運河を通行する船の一割を占めていた鈴木商店も、金子の拡大主義と系列銀行を持たなかったことが原因で昭和の初めの金融恐慌時に倒産の憂き目にあっている。
 この樟脳の面白い利用方法の一つに天気予報を行うStorm GlassもしくはWeather Glasssと呼ばれる計器がある。「種の起源」で有名なダーウィンが乗り込んでいたことで知られるビーグル号の司令官ロバート・フィッツロイが科学的で詳しい観察研究記録を遺している。またジュール・ベルヌの「海底二万マイル」にもこの計器が気圧計や温度計とともに登場している。日本にも出島を通して伝えられ日本海を航海した北前船の船乗り達に「測候器」とか「風雨計」などと呼ばれて愛用されていた。
 この興味深い計器がどのようなものであったかを紹介してみよう。先ず硝酸カリウム二・五グラム、塩化アンモニウム二・五グラム、蒸留水三十三ミリリットルを混ぜ合わせたA液と、樟脳十グラム、エチルアルコール四十ミリリットルとを混ぜ合わせたB液を別々に作る。次にこの二液を混ぜ合わせてガラス管に密閉する。こうして作られた計器の中に樟脳の結晶が見られないか少ないと天気が良く、多いと悪くなるというもので、フィッツロイは気温や大気中の電位変化に影響を受け、天気予報を行う手助けとなると評価している。そのため時のイギリス政府は海難事故防止のために水銀式気圧計、温度計そしてこの計器を一組にしたAdmiralFizroy'sBarometer(フィッツロイ提督の予測器)を配備している。
 もう一つの面白い利用方法が樟脳玉である。かつては劇場などで怪談を演じるときに人魂として用いたのだが、樟脳を玉にしたものをぶら下げて火をつけると、まるで人魂のような燃え方をするのと、それほど熱くならないので周りに燃え移る心配が少ないのでよく用いられた。またおもちゃとして明治の初めの頃まて゛売られていたようだ。
 おもちゃと言えば表面張力を利用したセルロイド製の樟脳の船も懐かしい思い出である。
 もしクスノキの葉が手に入ったら樟脳を作る実験をしてみよう。クスノキの葉を水と一緒にフラスコなどに入れて熱して出てきた蒸気を冷やすと樟脳は昇華性があるので、固体の結晶として得られる。
 このように樟脳はただ単に防虫剤としてだけ用いられてきただけでなく、様々な用途を持っていて時には一国の経済を左右したり、歴史を動かしたりしてきた。また最近では太陽電池にも用いられているので時には樟脳の匂いをかいでみるのもいいだろう。

著者の松尾 和彦氏は歴史作家で近世、現代史を専門とし岡山市に在住する。

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