セルロイドサロン |
第90回 |
松尾 和彦 |
恐慌とセルロイド |
2009年はアメリカ発の未曽有(どこかの国の首相風に言うと「みそうゆう」)の経済危機が一向に収まる様子を見せないままに年を明けました。ジンバブエでは百億分の一のデノミ、アイスランドは90%以上も株価が下落するなど、まさに世界同時恐慌の様相を見せています。日本でも派遣切りにあった人が日比谷公園などのテント村で過ごしている映像が流れました。 この恐慌、インフレーションですが驚くほど古い歴史を持っていて、アレキサンダー大王がペルシァを征服したB.C.331年に戦利品があまりにも膨大であったために世界最初と言われるインフレーションが起きています。 このことで分かるように恐慌、インフレーションなどは過去には主に戦争が原因で起こりました。ところが皮肉なことに脱却する方法もまた戦争だったのです。 セルロイドが発明された頃にも恐慌が起きています。その頃、アメリカでは南北戦争、ヨーロッパでは普墺戦争、普仏戦争などが続いて戦後処理に忙殺されていました。結果は誰もが予想していた通りの経済恐慌です。ニューヨークの金融取引は一時停止に追い込まれ、ヨーロッパ中に失業者があふれたことから社会主義政党が成立したり、逆に帝国主義を強化したりすることとなりました。 この時の恐慌が長引いたのはドイツで経済恐慌だけでなく、農業恐慌にも襲われ経済は大混乱に陥ります。またオーストリアはオーストリア・ハンガリー二重帝国という奇妙な国家体制となります。一方でいち早く回復したのが西部開拓に活路を見いだし大陸横断鉄道を建設したアメリカでした。 1877年(明治十年)に神戸の外国人居留地二十二番館にもたらされたセルロイドを、ドイツではなくアメリカのものだとする根拠の一つが、その当時の両国の経済状況の違いです。 経済に影響をもたらした戦争の中で一番有名なものは何といっても第一次世界大戦でしょう。1914年の夏に戦争が始まった時には遅くとも年内には終結するというのが一般的な見方でした。 ところが神戸の新興財閥であった鈴木商店は海外の電報を集めて分析した結果「この戦争はこれまでにない規模のものとなり長引く」との結論を出します。物価の高騰を見込んだ鈴木商店は世界中で投機的に買い集めに走り、特に鉄、小麦、船などは日本を介さない三国間貿易を行って事業を急拡大させます。 第一次大戦中に鈴木商店が買収した会社には播磨造船、日本金属工業、南洋精糖、帝国染料、日本セルロイド、大田川水電、浪華倉庫、南朝鮮鉄道、信越電力、帝国石油、旭石油、東洋マッチ、帝国樟脳などがあります。 これだけ事業を各方面に拡大したのですから鈴木商店の売り上げは急増し、全盛期には当時の日本のGNPの一割に相当する十六億円に達し、スエズ運河を通過する貨物の一割は鈴木商店所有と言われたほどです。 鈴木商店が買収した会社の中に日本セルロイド、帝国樟脳とセルロイドに関する会社が二つあるのに気がつかれたことと思います。実は鈴木商店は日清戦争後に樟脳で失敗をしています。日清戦争の結果、樟脳の原料である樟樹の産地台湾が日本の領土となります。 ところがその当時は樟脳の需要そのものが防虫剤程度に限られていましたので、鈴木商店は損失を出すことになります。しかし打ち切ることなくそのままの体制を続けます。 鈴木商店の樟脳事業が注目を浴びるようになったのはセルロイド事業が本格化してからです。1899年(明治三十二年)に台湾樟脳油の販売権を獲得して、ほぼ独占状態となったために樟脳の価格を自由に操作することが出来ました。1899年8月に1ポンド当たり43.5セントだったものが12月には51セント、1903年1月になると55-60セントへと高騰していきました。 これではセルロイド業者はたまったものではありません。特にアメリカの業者が大打撃を受けました。そのため考えた手段が自国での樟脳生産です。フロリダの5,000エーカーの土地に樟樹を植えたのですが、その土地の名前が何と「サツマ」。 この事業は後に思いも掛けない展開となりました。葉が生い茂って収穫が出来ると思った頃にアオスジアゲハの幼虫によって食い荒らされて頓挫します。 しかし鈴木商店の全盛時代は長くありませんでした。戦争もいつかは終わります。そうなると反動で株価、工業製品価格、船舶の運賃など総てが下落します。鈴木商店の弱点は上場企業ではなかったということです。銀行からの借り入れだけで資金を賄っていたために一億三千万の資本金に対して十億を超える借入金を抱えることとなります。 そこへ持ってきて関東大震災です。地震そのものの被害よりも震災手形という不渡り手形が大変でした。この手形の約半分が台湾銀行のもの、さらにその中の七割が鈴木商店のものでした。総額は現在の金額に換算すると約440億円に上るという巨額でした。 このような状況でしたから金融恐慌となります。ただでさえ危険な状態だった東京渡辺銀行が片岡大蔵大臣の失言によって閉鎖に追い込まれると、堰を切ったように中井銀行、左右田銀行、八十四銀行、十五銀行、中沢銀行、村井銀行などが休業します。 この金融恐慌で休業した中で一番の大物が台湾銀行でした。鈴木商店は樟脳の取引の関係で台湾銀行と密接に結びついていました。メーンバンクを持たない鈴木商店にとっての事実上のメーンバンクであったために影響は大きく、事業停止・清算へと追い込まれます。負債総額は、はっきりとしませんが戦前期における最大の倒産であったのはまず間違いないところです。 その後、鈴木商店の事業は主に三井系の企業に継承されています。その中の一つがダイセル化学工業であるのは良く知られていることです。 昭和の金融恐慌、それに続く世界同時恐慌から最も早く立ち直ったのは意外にも日本です。金輸出再禁止によって円価格が急落したことで輸出が急増して景気は回復し、1933年(昭和八年)には他の主要国に先駆けて恐慌以前の経済水準にまで戻りました。 この頃にはセルロイドの生産も盛んになり、セルロイド玩具が爆発的に輸出されます。1937年の輸出額は4,200万円。これは当時の貿易額で第四位という重要輸出品でした。 しかし戦争によってその後の日本経済は完全に破綻してしまうこととなります。 壊滅状態だった日本の経済を救ったのは今では考えられないほどの円安でした。一ドルが三百六十円の固定相場制だったのは良く知られていますが、さらにローカル相場があったのです。玩具業界では六百円(後に四百五十円となる)というレートでした。この円安相場に支えられてセルロイド玩具は再び爆発的に輸出を伸ばし、戦後経済の救世主となりました。 このようにセルロイド産業も他の産業と同じように恐慌やインフレーションと深く関わっているのです。 |
著者の松尾 和彦氏は歴史作家で近世、現代史を専門とし岡山市に在住する。 |
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