セルロイドサロン
第94回
松尾 和彦
横浜開港百五十年とセルロイド



 「太平の眠りを覚ます蒸気船(上喜撰) たった四杯で夜も眠れず」

 1853年(嘉永六年)、ペリーが浦賀にやってきた時の混乱した様子を示す有名な狂歌です。ところがこの歌は明治十年頃作られたもので、当時のものではありません。また日本中が大混乱に陥ったというのも間違いで、浦賀の人々は外国船など慣れっこになっていて船を仕立てて見物に出かけるほどでした。


 ペリーは翌年にもやってきて、現在横浜開港資料館のある場所で日米和親条約を調印することとなりました。この時の様子を描いた錦絵の隅にタマクスの木が見られますが、現在でもその木が中庭にあります。


 和親条約で開港したのは下田、箱館(函館)の二港だけでしたので、アメリカがさらに要求を強めた結果、1858年(安政五年)日米修好通商条約が結ばれることとなりました。同様な条約がオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも結ばれましたので安政五ヶ国条約と呼ばれています。

 この条約によって神奈川、長崎、新潟、兵庫を開港することが決まりました。ところが実際には神奈川ではなくて横浜、兵庫ではなくて神戸でした。何れも東海道、山陽道から離れた寒村でしたので「条約違反」だとの声も上がりました。横浜が神奈川県、神戸が兵庫県となっているのは、明治新政府が条約を正当化するために半ば強引に廃藩置県を行った結果です。

 条約の結果、1859年7月1日(安政六年六月二日)横浜が開港されることとなりました。つまり今年2009年(平成二十一年)は横浜開港百五十年という記念すべき年になります。これを記念して四月二十八日から九月二十七日まで「開国博Y150(ワイひゃくごじゅう)」と称する記念博覧会が開催されます。

 横浜は、このように早くから開港されたおかげで鉄道、アイスクリーム、牛乳、金属製の橋、野球、ホテル、クリーニング、レストラン、マッチ、石鹸など日本で最初のものが多く見られます。



 セルロイドに関しましては1877年(明治十年)に神戸の外国人居留地二十二番館にもたらされたのが最初ですから、残念ながら最初ではありません。でもその翌年には横浜の二十八番館チップマン・アンド・ストーン商会にも現れました。

 この時にはセルロイドに関する知識が乏しく在庫も底をついたために途絶えてしまいました。その後1885年(明治十八年)には三井物産が大量に輸入したのですが、アメリカからやってきた場所が横浜でした。

 また大工原藤吉が象牙様セルロイドを使って掛け軸の芯棒を作ったのですが、その輸入先が二十八番館でした。

 さらに二十四番館ブルール商会が1886年(明治十九年)にドイツからセルロイドの櫛を百ダース輸入したのが、日本で最初のセルロイド櫛です。

 その後、セルロイドの輸入が本格化しますが、それは主として横浜の一七五番館ハーブル商会で、他にはストローム商会、カーチス商会、ウインケル商会などで何れも横浜にあったものでした。

 このように横浜は日本国内での生産が始まるまではセルロイド産業の先頭を走っていました。サロンの83にも書きましたが、山下町の番地は外国人居留地の番館と同じです。二十八番館は二十八番地、二十四番館は二十四番地、そして一七五番館は一七五番地となっていますので分かりやすいのです。


 また横浜は港町ですが、1935年(昭和十年)頃までは輸入よりも輸出のほうが多いという傾向がありました。輸出品で一番多かったものは開港直後から昭和の初めまでは一貫して生糸、戦後は機械、現在では自動車です。

セルロイド製の「青い目をしたお人形」は日本の港に「着いた」ことになっていますが、実際には日本の港から「出ていった」のです。「青い目をしたお人形」は主に東京の下町で作られていましたから「出ていった」港は横浜だったのでしょう。



 このように今年開港百五十年を迎える横浜はセルロイドとも深い関係を持つ魅力あふれる街ですので、一度散策されてみてはどうでしょうか。






著者の松尾 和彦氏は歴史作家で近世、現代史を専門とし岡山市に在住する。


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