セルロイドサロン
第95回
松尾 和彦
パンデミックとセルロイド



 メキシコで発生した新型インフルエンザ(豚インフルエンザ)が瞬くうちに世界中に広がってしまい、日本でも数多くの患者を出しました。各地で予定されていたイベントが次々に中止となりマスクが売り切れとなる事態となりました。セルロイド産業文化研究会でも五月二十二日に予定していたミニカンファレンスを中止といたしました。

 このようにある特定の疾患が世界的に流行することをパンデミックと言います。パンデミックとはギリシャ語で「総ての人々」という意味ですから少し怖い話です。



 このパンデミックなるものは、もしかしたら人類の発生とともにあったのではないかと思われるほどで、紀元前五千年頃に結核の大流行があったことを示す遺跡が知られています。

 はっきりとした形で分かるのはペロポネセス戦争のさなかであったB.C.429年、スパルタ軍と対峙していたアテナイ(アテネ)でパンデミックが起きました。これはペストだと言われていましたが、天然痘もしくは発疹チフス、あるいは両者の同時発生が起きたものです。指導者のペリクレスも没したために、アテナイは敗北に追い込まれデロス同盟は解体に追い込まれました。



 A.D.542年から翌年にかけてユスティニアヌス一世治下の東ローマ帝国で本物のペストが大発生します。人口の半分が死亡し帝国は機能不全に陥るほどでした。

 ペストの大流行として最も大規模で最も有名な中世ヨーロッパのものは、元との交易が盛んになっていたことにより毛皮についていたノミがネズミに寄生して広がったとされています。正確な数字は分かりませんが全世界で8,500万人、ヨーロッパでは当時の人口の三分の一から三分の二にあたる2,000万人~3,000万人が犠牲になったと言われていますから、パニックになったことでしょう。



 ペストとともにパンデミックを引き起こすことが知られているのがインフルエンザですが、B.C.412年に「医学の父」と言われるヒポクラテスが記録しています。

 インフルエンザの大流行として有名な1918年のスペイン風邪は三月頃にアメリカのデトロイトやサウスカロライナ州で発生したものが、六月に爆発的に広がりました。アメリカ発なのに「スペイン風邪」と呼ぶのは、当時は第一次大戦の最中でほとんどの国が厳しい検閲を行っていましたが、中立を守ったスペインには報道の自由がありました。そのために情報の発信源となった国の名前を取ったのです。

 最初はアメリカ国内だけにとどまっていたのですが、兵隊を送ったことから秋にはヨーロッパ中に広まり病原性も強くなってしまいました。そして翌年の第三波が最悪の結果をもたらしました。

 一連の大流行による感染者の数は六億人、死者は五千万人(一千万人、一億人という相反するデータもある)に達しました。当時の世界の人口は約十八億ですから三人に一人が感染したことになります。

 日本でも四十八万人が犠牲になりましたが、その中には劇作家島村抱月、東京駅を設計した辰野金吾、女子教育家で津田梅子らとともに最初の女子留学生となった大山捨松、西郷隆盛の息子の寅太郎などの有名人がいます。



 このスペイン風邪はインフルエンザですから呼吸器系の疾患です。セルロイドに可塑剤として「樟脳」が使われているのは御存じのことと思いますが、「樟脳」はかつて霊薬として珍重されていましたB.C.600年頃にはアラビアで珍重され、その後、ギリシャ、ローマに伝わりましたのでヒポクラテスも使ったかも知れません。

 スペイン風邪がパンデミックを起こした当時のアメリカデトロイトは自動車産業を中心とする工業都市として知られていましたが、工場や自動車からの排煙により大気汚染が進んでいました。また人口が爆発的に増えたために各地にスラム街が広がっていました。そのため呼吸器疾患が多い場所でした。さらにアメリカの婦人は「セルロイド製」などのコルセットで極端なまでに身体を締めていたために、呼吸器系統が弱くなっている人が多かったのです。もしかしたらデトロイトが発生源となった原因は、この辺りにあったのかもしれません。

 実際には全くと言っていいほど効果が無いのですが、「セルロイド製」のカラーやカフスをしていると、含まれている「樟脳」が呼吸器系統に効果があると思われていました。そのためにカラーやカフスを身に付けるという笑えない珍現象が見られました。



 今回の新型インフルエンザ騒動でマスクが売り切れになったりしていますが、かつてマスクのケースや芯に「セルロイド」が使われていました。もし今でも「セルロイド」が使われていて今回のような騒動になったら、たちまち品切れになってパニックを起こしていたことでしょう。



 スペイン風邪によるパンデミックの時代と比べると医療は格段の進歩を遂げていますが、交通手段の発達も比べ物になりません。治療は高度なものが行われるでしょうが感染拡大の速度に追いつかないかもしれません。今回の新型インフルエンザには「恐れず、慌てず、侮らず」の姿勢で臨むことといたしましょう。





著者の松尾 和彦氏は歴史作家で近世、現代史を専門とし岡山市に在住する。


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