セルロイドサロン
第97回
松尾 和彦
セルロイドが見た140年



 セルロイドが誕生したのは1868年のアメリカであると言われてきましたが、最近の研究では1870年説のほうが有力となってきています。いずれにしても140年という年月が経っているわけです。この140年の間にどのようなことがあったのでしょうか。



 140年前のアメリカは南北戦争による混乱から立ち直ろうとしていた時期で、大陸横断鉄道の完成により西部開拓の機運に満ちていました。東部では産業の発達が著しく鉄鋼、化学などが先端を走っていました。だからこそセルロイドも発明されたのです。今では五十州あるアメリカも当時はまだ三十七州しかありませんでした。

 イギリスはヴィクトリア一世の時代で世界中に植民地を持つ、まさに大英帝国でした。産業革命によって飛躍的に工業技術が進歩して生産性も上がったものの、歪も生まれ出した時代です。

 フランスはナポレオン三世が普仏戦争に敗れて退位へと追い込まれたために第二帝政が終焉を迎え、第三共和政の時代となりました。

 その普仏戦争の相手国プロイセン王国は、鉄血宰相ビスマルクの指導のもとドイツ帝国となりヨーロッパの強国となります。

 普仏戦争の影響はサルデーニャ王国によって統一がなされたばかりのイタリア王国にも及び、教皇領を守護していたフランス軍が引き揚げたためにローマは占領され、イタリア王国はフィレンツェからローマへと遷都します。

 ヨーロッパはこの後、第一次大戦が終わるまでこの状態が続くこととなります。

 この頃、スエズ運河が開通してヨーロッパとアジアが近くなりました。

 日本は明治維新が行われたばかりで世界的に見れば、まだまだ遅れた国でした。その遅れを取り戻そうとして無理な政策が行われたことから前原一誠、江藤新平、西郷隆盛などが乱を起こすこととなります。

 この当時のアジアはほとんどが植民地もしくは属国のような状態で、アフリカに至ってはエチオピアとリベリアの二ヶ国だけが独立しているという状況でした。



 日本に初めてのセルロイドがもたらされた1877年(明治十年)は、最後にして最大の士族による反乱西南戦争が勃発します。

 エジソンが録音機の発明を行ったのはこの頃で、当時は勿論?管方式でしたが後にセルロイド盤が使われるようになったのはよく知られているところです。

 セルロイド産業は発明されてから十年ほどの間に飛躍的な成長を遂げてビリヤードボール、入れ歯、馬の手入れ用具、アクセサリー類、ピアノ鍵盤などに使用されるようになりました。日本でも、東京大学、化学会、学士院などが創設された時代となりました。



 時代が飛んで1894年(明治二十七年)に勃発した日清戦争の結果、樟脳の原料となる樟樹の大生産地である台湾が日本の領土となります。これにより世界一の樟脳生産地となったことでセルロイド生産の下地が整います。またこれから後、日本が樟脳の価格をコントロールしていくこととなりました。そのためアメリカでは台湾と気候が似ているフロリダで樟樹を栽培しようとしましたが、葉が茂った頃にアオスジアゲハの幼虫によって食い荒らされるという笑えない喜劇となり、中止されました。



 しかし日本で本格的なセルロイド生産が始まるのは、さらに十年以上が過ぎてからとなります。1908年(明治四十一年)に三菱が兵庫県網干に日本セルロイド人造絹糸、三井が大阪府堺に堺セルロイドを設立してから百一年が経過したわけです。

 この頃、パナマ運河の建設も始まり世界はますます小さくなっていきます。その小さくなった世界を震撼させたのがサラエボの銃弾です。オーストリア皇太子夫妻の暗殺事件は、たちまちのうちに世界中を巻き込む大戦争へと発展していきました。

この時に銃弾を防ぐ土嚢としてSZKのマークが入った袋が使われました。これは樟脳産業により大発展を遂げた鈴木商店の小麦袋です。三井、三菱を凌駕し売り上げは当時の日本のGNPの一割にも相当して、スエズ運河を通航する船舶の一割を所有していたと言われるほどの大財閥でした。

 しばしば語られる空前絶後の好景気が訪れたのがこの時で、数多くの成金が生まれました。セルロイド業界でも一夜にして大学卒の月給以上の金が入ってくるものですから、加工業者の数が飛躍的に増えることとなります。



 世界中を巻き込んだ戦争が終わるとヨーロッパの地図が大きく変わることとなります。ドイツ、オーストリア・ハンガリー、ロシア、オスマントルコの四帝国が分解し、それぞれの国を統治していた皇帝家は殺されたり、追放されたりとなりました。ポーランドが復活してチェコスロバキア、ユーゴスラビアという新しい国が生まれ、フィンランド、エストニア、ラトビア、リトアニアが独立を果たします。

 日本は空前絶後の好景気から一大不況へと落ち込みます。そのためセルロイドを製造している会社八つが大合併して「大日本セルロイド」となったのはよく知られています。

 有名な童謡「青い目のお人形」が作られたのもこの頃で、よく間違えられるのですがシドニー・ルイス・ギューリック博士の提案による人形使節が日本にやってくるよりも六年前の話です。

 国産セルロイド玩具の生産額が世界一となりました1927年(昭和二年)は人形使節が贈られた年として知られています。この頃の日本は金融不況によって経済的にはどん底に近い状況にありました。その中でセルロイド業界が頑張っていたのが分かります。

 この金融恐慌に耐えきれなくなって戦前では最大規模の倒産に追い込まれたのが鈴木商店でした。

 この当時、ドイツの生産量が驚くべき数字を記録しています。1925年(大正十四年)に18,900トンを生産して以来、21,000トン、22,000トン、16,300トンとなりますが、この数字には最盛期の日本も追い付きません。



 その頃、アメリカは空前の投機熱で靴磨きの少年までもが株式の話をするほどでした。ジョン・F・ケネディの父親のジョセフは株取引で大儲けをしましたが、そのほとんどがマフィア絡みのインサイダー取引で、さらに禁酒法の時代でしたので、こちらでもフランク・コステロ、ポール・リッカといったマフィアと深い付き合いを持つこととなります。息子のケネディ大統領暗殺事件の陰にマフィアの存在が見え隠れするのは、父親との深い付き合いが一因となっています。

 これから二年後にはニューヨークの株式が大暴落するという「暗黒の木曜日」「悲劇の火曜日」によりアメリカ経済が大打撃を被ります。この時最初に株価が暴落したのが先頃破綻に追い込まれたGM(ゼネラルモータース)でした。

 よくアメリカの株価暴落が世界大不況につながったと言われて教科書にまで書かれているほどですが、その当時は株式市況の力はまだ弱くてアメリカ以外の国では局部的な打撃に留まっていました。恐慌が世界に広がった実際の原因は銀行の破綻で、オーストリアのクレジットアンシュタルト、ドイツのダナートといった大銀行が相次いで突然に閉鎖した1931年こそ世界恐慌の年とすべきでしょう。



 白木屋の火事があった一九三二年(昭和七年)は五一五事件によって犬養毅、血盟団事件では井上準之助、団琢磨などの要人が凶弾に倒れるというきな臭い時代となります。しかも人々はテロリストに喝采を送り寛大な刑を要求するほどでした。その対応の誤りが四年後の二二六事件へとつながっていきます。

前年に勃発した満州事変から続く上海事変、それに対するリットン調査団の報告を不服としての国際連盟脱退などにより国際的孤立を深めていく時代となりました。こちらでも対応を誤ったが為に日中戦争からアメリカ、イギリスなどを相手とする絶望的な戦いへとつながっていきました。

 一九三四年(昭和九年)から一九四○年(昭和十五年)までの七年間というもの、日本でのセルロイド生地生産量が一万トンを越えます。特に一九三七年(昭和十二年)に記録した12,762トンはドイツの記録に次ぐものとなっています。

 このようにセルロイドの生産そのものは活況を呈していたのですが、時代が国家総動員体制、統制経済体制となったために働き手を取られてしまう、生地は入手出来ない、市場も失うとあっては加工業者を始めとする業界は壊滅状態となります。そしてどうしようもなくなった時に終戦となりますが、一九四五年(昭和二十年)でも1,641トンを生産しているのには驚かされます。



 この戦争により日本の経済は壊滅状態になったのですが、その中にあって(MADE IN OCCUPIED JAPAN)の刻印が入ったセルロイド玩具の輸出額が一九四七(昭和二十二)年度において一、八九六万円を記録しています。

 一九五○年(昭和二十五年)に勃発した朝鮮戦争はセルロイドだけでなく日本の経済総てを立て直したのですが、この戦争が終わった翌年の一九五四年(昭和二十九年)にアメリカから戦争を上回る衝撃的な報せが伝わってきます。

 トーマス・レインという名の下院議員が「日本の燃えやすいセルロイド玩具の輸入を禁止すべきである」との要請を関税当局と商務省に行ったのです。これを受けた形で伊勢丹が「セルロイド玩具は全部不燃性のものと取り換えました。安心してお求めください」との広告を各新聞に掲載したのです。そして各百貨店も追随してセルロイド玩具を撤収しました。ただしこの当時はプラスチックの製造は少なく、セルロイド生地は戦後最高の生産を記録した年でした。そのために百貨店からはセルロイド玩具が消えましたけれども、一般小売店では健在でした。このような両立状態が、これから以後しばらく続くこととなります。



 その後、セルロイドが各メーカーの主要産品ではなくなっていきます。それが分かるのが各社の社名で「滝川セルロイド」が「タキロン」、「筒中セルロイド」は「筒中プラスチック」、そして「大日本セルロイド」まで「ダイセル」を経て「ダイセル化学工業」と社名を変更します。次々に生産を中止していき遂には「ダイセル化学工業」一社となり、一九九五年(平成七年)をもって日本国内での生産を中止してしまいます。この年は阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件などの大事件が相次いだ年となりました。



 そして二○○○年(平成十二年)国際文化会館において第一回セルロイドカンファレンスが開催されます。それ以来足かけ十年、本年も十一月五日(木)に第一回と同じ国際文化会館において開催いたします。また二○○五年(平成十七年)には横浜綱島にセルロイドハウスを開館いたしました。どちらにも多数のご来場をお願いするとともに、今後ともセルロイドを愛好していただきたいと思います。




著者の松尾 和彦氏は歴史作家で近世、現代史を専門とし岡山市に在住する。


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