セルロイドサロン
第99回
松尾 和彦
葛飾と東成



 「男はつらいよ」でお馴染の帝釈天がある東京都葛飾区とセルロイド会館のある大阪市東成区。似ていると言えば似ている。違うと言えば違うようなところです。
 まずは面積、人口、人口密度を比べてみましょう。

葛飾区 東成区
面積 34.84Km2 4.55Km2
人口 430,999人 78,842人
人口密度 12,370人/Km2 17.340人/Km2


東成区の小ささが目立ちますが、それもそのはずで1925年(大正十四年)の誕生以来、旭区、生野区城東区を分区しています。さらに鶴見区も城東区から分かれていますので、これら総てを集めると35.81Km2 、582,792人ですので葛飾区よりも大きくなります。



 この似ているような違うような二つの区を見ていくこととしましょう。先ずは葛飾区からです。

この葛飾が最初に現れるのは正倉院に収蔵されている養老五年(721年)の「下総国葛飾郡大嶋郷戸籍」で、「嶋俣里」に男165人、女205人、42戸が居住しているとの記述があります。その中に驚くような名前があります。その名前とは「穴穂部戸良(あなほべのとら)」と「穴穂部佐久良(あのほべのさくら)」。ただしこの二人は兄と妹ではなくて夫婦です。その頃から縁があったようです。



 役所のある「立石」は古墳時代には既に開けていて、千葉県の鋸山から運んできた房州石による南蔵院裏古墳があったのですが惜しいことに明治時代に破壊されてしまいました。

 このような石造りの古墳があったことから「立石」という地名になったと言われています。奈良・平安時代頃には東海道がこの地を横断していました。



 サロン93に書きました復活劇の主人公奥山社長の協立製作所があります「お花茶屋」は、徳川吉宗が鷹狩りに興じている時に腹痛を起こしますが、「お花」という娘が看病してくれたおかげで回復します。その時に賜った名前だということです。



 セルロイド工場が多くあった「四ツ木」は「世継が住んでいた」、「頼朝が通りかかったのが四つ過ぎだった」、「四つの辻があった」などの説がありますが、確定できるようなものではありません。確実なのは江戸時代の初め頃に「四ツ木新田村」が周辺の村から分かれてこの地に起こったということです。

 四ツ木駅の南側一帯は室町時代から「渋江」と呼ばれていて、大正三年(1914年)に千種稔のセルロイド工場が操業を開始して以来、多くのセルロイド工場が操業していたことはあまりにも有名です。また千種工場の跡地が渋江公園となり、碑が建てられていることも良く知られています。

 農業地帯に点在する古い農家、その中にトタン葺きの屋根の工場から煙が上がっている。それがセルロイドの工場です。下請け工場では夏なら六時頃からプレス熱鉄下の石炭に火を付けて、朝食をとる間に鉄板が焼けると一日に何百もの型を焼き、仕事が終わるのは夜の八時九時という長時間重労働でした。

 この辺りにセルロイド加工業が発達した理由は周りに人家が少なかったからです。火事が多かったのですが、火がついたらあわてて跳ね飛ばしたりするから周りに引火してしまうのです。そのような時には周りの物をどかしてしまうのです。また余裕があれば窓から外に放り投げます。四ツ木一帯は水田などの湿地帯ですので自然に鎮火しました。

 この一帯は今でも立石とともに玩具産業の割合が高くなっています。



 次に東成区を見ることといたしましょう。「東成」は元はと言えば「東生」と書いて「ひがしなり」と読んでいました。南北朝時代の正平六年(1352年)に書かれた四天王寺の僧による日記に「新開荘」なる地名が見られます。この「新開荘」は現在の東成の大半を占め四天王寺の寺領でしたが、豊臣秀吉の検地によって廃止され江戸時代には大阪の他の地と同じように天領となりました。



 大阪セルロイド会館の最寄り駅は地下鉄の「今里」駅で、「今里」筋という通りや「今里」筋線という地下鉄の路線がありますが、意外なことに「今里」という地名はありません。あるのは「大今里」、「大今里西」、「大今里南」、「東今里」、「新今里」で以前には「西今里町」、「大今里本町」なども存在しました。

 この地は暗越奈良街道、北八尾街道、十三街道など東へ向かう街道の分岐点であり、地下鉄の駅を上がったところの今里交差点は五差路になっていますが、かつては市電やトロリーバスなどが乗り入れていた交通の要所でした。区役所があるので分かるようにこの辺りが東成の中心部です。



 今では分区して生野区となっています鶴橋一帯は、仁徳天皇の時代に百済からの渡来人がやってきて豚(猪)を飼っていました。そのために「猪飼野」という地名が生まれました。さらに渡来人が平野川に架けた橋が「つるのはし」と呼ばれたことから「鶴橋」となったわけです。



 この今里及び鶴橋にはかつて櫛、眼鏡、ブラシなどセルロイド加工業者が数多くの工場を構え、屑の回収業者や再製加工業者なども多かったのですが、今ではすっかり姿を消してしまいました。また葛飾で見られるプラスチック加工業者も無いのは残念なことです。この地にも何時か葛飾のように復活の日が訪れることを願います。






著者の松尾 和彦氏は歴史作家で近世、現代史を専門とし岡山市に在住する。


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