三方よし |
高島屋、大丸、伊藤忠商事、丸紅、トーメン、ヤンマー、東レ、武田薬品、これらの共通点は何でしょう。それは近江商人であるということです。大阪、伊勢とともに三代商人とされている近江商人ですが、活動領域が近江だけでは地商いと呼ばれます。本拠は近江に置くけれども活動領域は全国に及ぶというのが近江商人です。 その中心となっているのが近江八幡市ですが、そこで歴史作家の童門冬二氏による「近江商人が守り抜いた商いの原点」との講演会が開かれました。 近江八幡市は布団でお馴染みの西川甚五郎邸、旧伴家など江戸時代からの屋敷があって町並み保存地区となっている一方で、洋風建築も数多く見られます。それはメンソレータムの近江兄弟社で知られるウィリアム・メレル・ヴォーリズがこの地で活躍したからで、今でも高校や病院などが遺されています。 また時代劇でお馴染みの八幡掘、近江八幡の名のもととなった日牟禮八幡宮などがあります。そして少し足を延ばせばラムサール条約に登録されている西の湖、さらには日本最大の湖である琵琶湖もあるという魅力的な場所です。ただしこれらは何れも駅からは離れていますのでレンタサイクルを利用されることをお勧めします。 近江商人を代表する言葉に「三方よし」があります。今回の講演の主催者も「三方よし研究所」です。 三方よしとは売り手よし、買い手よし、世間よしのことです。商売をするからには儲からねばいけません、買った側を満足させないといけません。近江ではこれに世間よしが加わります。 先に挙げた八幡堀ですが「人は土の道、荷は水の道」との考えの基に築かれたものです。これを築いた豊臣秀次は秀吉の甥で養子となり関白にまでなった人物ですが、次第に秀吉と対立するようになり遂には切腹に追い込まれます。この秀次が本当に尊敬していたのは秀吉ではなくて信長だったのでしょう。 その信長に認められた近江人が藤堂高虎です。当時尾張で一番数字に強く「数鬼」とまで呼ばれた山口甚兵衛の記帳には、しばしば間違いが認められたのに対して高虎は寸分違いがありませんでした。ところが増田長盛という高虎をも上回る人物が現れました。この両名は後に秀吉に仕えともに重臣となっています。後の関ヶ原の時に高虎は徳川方となって岐阜城を攻略して生き残ったのに対して、長盛は豊臣方でありながら徳川方とも通じていて動こうとしませんでした。このどっちつかずの態度を責められて戦後に高野山に追放され、さらに岩槻に流されて大坂の陣の後に切腹させられるという悲劇的な最後を遂げています。 高虎、長盛の他にも片桐且元、脇坂安治、福原直高、寺沢広高、宮部長房らも近江出身です。 そして忘れていけない近江人が石田三成と童門氏も書いている蒲生氏郷です。三成が理にかなった茶の湯の出し方をして秀吉に認められたという話はあまりにも有名です。氏郷が子供の頃、信長が爪を切っていました。そして「拾い集めろ」と命じました。相手が信長ですから誰もが尻込みしたのですが氏郷は拾って「九つしかありません」と言いました。それもそのはず信長が一つ隠していて気がつくかどうか試していたのです。このことで氏郷を認めた信長は娘を妻として与えています。 その氏郷が常に心がけていたのが近江商人の根幹ともいえる「恕の精神」です。これは相手の身になって考えるということで、氏郷は伊勢では「四五百(よいお)」という地名を「松坂」に会津では「黒川」を「若松」と改めています。そこへ近江商人を招いて前からいる商人と敵対はしないが競争はする、地元の人が前よりも良いものを安く手に入れることが出来るという政策を取っています。 近江商人が伝えた言葉に「利はつとむるに於いて真なり」というものがあります。これは利益は物資の流通を図り需要と供給の関係を満たす仕事をしていれば自然に付いてくるものであるとの職業観、職業倫理で独特のものとも言えます。 そして「陰徳善事」とは人知れず良いことを行いなさい、自己顕示や見返りを期待せずに人のために尽くしなさいとの考えで、明治の初め頃に遺した家訓に「年に二、三千円を世間のために使え」というものがあります。これは現在にすると億を超えようかという金額です。 近江商人は吝嗇である、通り過ぎた後には雑草さえも残らないという悪評は決して正しいものではないということが分かる言葉です。 また近江商人は人事管理に於いても手法を発揮していました。子飼いから始まって丁稚、手代、番頭へと上がっていくのは同じですが、途中に「在所登り」という関門があります。この時に認められれば出世しますが、解雇されることも珍しくなかったといいます。終身雇用ではなくて能力主義を取り入れるというのは現在の雇用制度に通じるものがあります。 そして能力が無いものは主人といえども強制的に押し込めていました。二代目、三代目ばかりが幅を利かせている会社の経営者には耳が痛い言葉でしょう。 このような近江商人が心がけていた六ヶ状が一、平和に 二、豊かに 三、平等に 四、正しく 五、自己向上 六、交流で いずれも行いたいことばかりです。この思想があったからこそ繁栄を継続できたのです。童門氏が講演した「近江商人が守り抜いた商いの原点」です。この考えに生で触れるために一度は近江を訪れることをお勧めします。 |
松尾 和彦 |
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