よねと直吉を支えた人々


 去る5月9日、日本テレビ系にて「お家さん」というドラマの放映がありました。ご覧になった方も多いと思います。
「お家さん」とは女主人を意味する関西言葉で、ここで言う「お家さん」とは鈴木商店の女主人鈴木よねのことです。このドラマでは樟脳やセルロイドの話が出てきたり、小道具としてセルロイドキューピーが二体出てきたりしたので、おやと思われたのではないでしょうか。
 鈴木商店はこれまでも何度か取り上げたことがありますのでご存知の方も多いと思いますが、戦前の一時期には三井、三菱を凌駕するとも言われるほどの大財閥でした。元はと言えば従業員数人の小さな砂糖問屋でした。それが一時は従業員二万数千人、日本の国家予算の約一割が鈴木商店によるもの、スエズ運河を通過する船の半数が関係していると言われるほどの大財閥へと発展しました。
 「お家さん」こと鈴木よね、「財界のナポレオン」こと金子直吉の二人が優れていたのは言うまでもないことですが、幾らこの二人が優秀であっても二人だけでは大財閥に発展することはありません。支えた人々がいたはずです。今回は、それらの人々を取り上げることといたしましょう。

鈴木家関係

・鈴木岩治郎(1841〜1894)
 武州川越藩の下級武士の次男だった鈴木岩治郎は菓子職人となった兄の影響で自分も菓子職人になるために長崎で修行します。その帰りに寄った神戸で「辰巳屋恒七」に雇われます。やがて暖簾分けという形で砂糖問屋を開きます。
 ドラマでは保守的で融通の利かない人物になっていましたが、実際には神戸有力八大貿易商にまで発展させ神戸貿易会社の頭取まで務めた大人物でしたが、52歳で急逝してしまいました。

・二代目鈴木岩治郎(1877〜1945)
 初代岩治郎とよねの長男で元は徳次郎と言っていましたが二代目となります。金子直吉が思いきり辣腕を振るうことが出来たのもこの二代目が全幅の信頼を置いたからだと言われています。

・鈴木岩蔵(1884〜1951)
 三男の岩蔵はマサチューセッツ工科大に留学したほどの秀才でエース的存在でした。後に帝国人造絹糸、太陽曹達の初代社長を務めています。

鈴木商店社員

・西川文蔵(1874〜1920)
 「学卒者第一号」と言われた西川文蔵は東京高商中退ですから実際には「学卒者」ではありません。
配属された部署は鈴木商店の代名詞とも言える樟脳部です。
 直吉は西川に絶大な信頼を置き後継者に考えるほどでしたが47歳という若さで急逝してしまいました。

・西川政一(1899〜1966)
 その西川文蔵が見込んだのが見習店員の須原政一で自宅に住まわせ神戸高商を卒業させています。そして次女と結婚するのですが、直前に鈴木商店は破綻してしまいます。
 しかし文蔵に見込まれたほどの人物ですから日商岩井の社長となります。またバレーボール協会の会長として「東洋の魔女」を育てました。

・高畑誠一(1887〜1978)
 第一次大戦当時、連合国を相手に船もろとも売り渡す商売を行った高畑誠一のことをチャーチルが「皇帝を商人にしたような男だ」と怖れました。
 合成アンモニアの製造特許を取得したり、ケニアのソーダの販売権を取得したりするほどスケールの大きな人物で、鈴木商店破綻後には日商を総合商社に育て上げました。

・永井幸太郎(1887〜1983)
 高畑誠一に誘われて鈴木商店に入社したのが神戸高商の同級生永井幸太郎です。スタンダード石油に入社していたのですが、半年遅れで転社しました。
 このコンビは後に日商を育て上げともに社長を務めました。

・柳田富士松(1867〜1928)
 柳田富士松は金子直吉よりも一年早く入社していて本流とも言える砂糖部門の責任者でした。290万トンであったジャワ糖の二割を取り扱うほどでしたから、鈴木商店並びに柳田富士松のスケールのほどが分かります。
 また食用油にも通じていて豊年製油の初代社長を務めています。
 
 この他にも神戸製鋼社長田宮嘉右衛門、帝国人造絹糸の共同創業者秦逸三・久村清太の両名、播磨造船社長横尾龍三、呉造船社長住田正一、日本製粉社長窪田駒吉らも鈴木商店の社員でした。

社員以外

・後藤新平(1857〜1929)
 東京市長、台湾総督府民政長官などを務めた後藤新平の本業は医者で暴漢に襲われた板垣退助の治療を行っています。その時に板垣は後藤が政治家でないのを残念がったと言われています。
 後に政治の世界に転じて台湾総督府民政長官としてアヘンを禁じ、砂糖、樟脳などを産品の中心に据える行政を行いました。

・後藤勝造
 鈴木商店が飛躍的に発展したのは台湾の樟脳ですが、そのためには後藤新平の許可を得ないといけません。でもいきなり面会がかなうほどの相手ではありません。仲介役が必要でした。それが後藤勝造です。この二人は同姓ですが姻戚関係はありません。勝造が経営する旅館に新平が泊まったことから知り合いました。金子直吉は勝造の紹介により新平との面会を果たし樟脳の販売権を得ます。
 勝造の旅館は後に「ミカドホテル」となり、その建物が鈴木商店の本社となりました。

・西田仲右衛門
 よねの実兄西田仲右衛門は塗師の二代目ですが後は継がず洋銀商となりました。大阪で名を成して「堂島の大砲の親分」、「座頭の大相場師」と呼ばれる存在となりました。鈴木商店破綻後の日商が新社屋を建設したのは西田仲右衛門が所有していた土地でした。

 他にも台湾銀行頭取の下坂藤太郎、東京海上火災社長各務謙吉なども、よね・直吉を支えた人々です。

 これほど人材が揃っていた鈴木商店が破綻したのは以前にも書きましたが日本の金融・経済体制が見かけだけのものだったのが大きいのですが、他に政治献金を行わなかったということもあります。震災手形を発行したのは直吉と同郷の内務大臣浜口雄幸ですが、これが鈴木商店の救済策だと野党から厳しく追求されています。もし政治献金を行っていたら、それほどのこともなかったことでしょう。政治家というのは今も昔も変わらないようです。

                               2014年5月11日記す

松尾 和彦


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