さる2016年(平成二十八年)10月28日、大阪セルロイド会館に於いて「さわやか交流会2016」が開催されました。
当日は午後から雨になるというあいにくの天候と突然の用事がはいる人が相次いだために、例年よりも少なめの20人ほどが出席する会となりました。
先ず登壇しました松尾理事は「我が国におけるセルロイド生地製造業の軌跡」と題する講演を行いました。
セルロイドが日本に最初にもたらされたのは1877年(明治十年)、神戸の外国人居留地二十二番であったことはよく知られています。まさにその時から始まったわけですが、技術力の欠如などによる製品の品質低下、高価であるなどに悩まされていました。しかし日清戦争の結果、可塑剤である樟脳の大産地台湾が日本の領土となったことなどからセルロイド生地製造の機運が高まり、さらに大資本の投入、技術力の向上などから日本国内でも堺セルロイド、日本セルロイド人造絹糸の二大工場が生産を開始し、第一次大戦による空前の好景気、反動不況、八社合併による大日本セルロイド(ダイセル)の誕生、その大日本セルロイドの栄光と苦難、樟脳を割与えてもらえなかった滝川セルロイド(タキロン)、日本窒素肥料(旭化成)の苦悩、戦時下の生産活動、戦後の復興、次々に現れた各種プラスチックにより圧迫されて衰退していき遂には生産活動を停止していく様子、そして化学遺産に認定された話などを年代を追って話しました。
次の登壇となりました小野評議委員は「関西セルロイド・プラスチック工業協同組合の沿革」と題する講演を行いました。
神戸二十二番館にセルロイドがもたらされてから関西が如何にセルロイドと関わっていったか。組合が何時頃どのようにして作られたか、東京でも作られた組合との連合会の設立、防火安全会の発足、今回の会場となりました櫛会館(大阪セルロイド会館)の建設、財団法人の設立、戦時下の組合活動などについて講演し、戦時下ではどのような代用品がセルロイドで製造されたかを具体的に話しました。そして戦後の協同組合の発足、大阪セルロイド組合の沿革、現在の会員などについて講演しました。
最後に登壇しましたのが今回のメインでもあります太陽刷子の小倉会長です。太陽刷子という名前は、あまりなじみがないと思います。でも製品は一度や二度は使ったことがあるはずです。何故ならライオンの歯ブラシの多くが太陽刷子で製造されたものです。
初代が会社を興してから既に百年近くが経過しています。何故そのような長い間、活動を続けられたかといいますと「つま先分だけ前を行く技術」を持ち続けたということが挙げられます。一歩先に行くと穴にはまって大怪我を負う、場合によっては命にかかわる。半歩先でも怪我をする。でもつま先分なら引き返すこともできる。だからつま先分だけ前に行くということが第一に挙げられると講演しました。
次に人脈を持つ、特に異業種との交流が大切である。三人寄れば文殊の知恵との言葉通り様々な人材とのネットワークを持てば力が十倍にも、それ以上にもなる、だからネットワークをたくさん作ってほしいと講演しました。
そして歯ブラシについての豆知識などを講演しましたが、途中から意外な話になりました。それは初芝高校サッカー部のコーチを務めていたということです。同高は今でこそサッカーの強豪校として知られていますが、当時は無名の弱小チーム。学校自体も荒れた高校と言われていました。ところが初出場でいきなり優勝、翌年は準優勝と次の年も四位とたちまちのうちに強豪校となりました。その時のコーチであった話をしました。
講演に次いで行われました懇親会はまさに小倉会長の独壇場とも言えました。歯ブラシの話、サッカー界の裏話などまだ講演が続いているのではないかと思えるような興味深い話でした。
そしてお開きとなりまた来年の再会を約束して散会しました。来年もまた「さわやか交流会2017」を開催する予定にしていますので多くの人々のご出席を期待しております。
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