セルロイドサロン
第14回
松尾 和彦
戦争の中のセルロイド
以前に「戦争とセルロイド」という記事を書きましたが(サロン第8回)、それはセルロイドがいかにして戦争によって影響を受けたかという視点からのものでしたので、今回はセルロイドが実際にどのような形で使われたかということについて書いてみることといたします。

ゼロ戦とセルロイド
 ゼロ戦(正式には零式艦上戦闘機)が登場したのはアメリカとの戦争が始まってからと思っている人が多いのですが、実際には日中戦争が行われていた一九四○年(昭和十五年)のことでその年が皇紀では二千六百年にあたるとされていたので、最後の零を取って零式と呼ばれたのがアメリカ側からゼロ戦と呼ばれるようになったのです。

 この新兵器が登場した時には世界中が目を見張りました(ただし日本では軍事機密であったので、日本人がこの名機の存在を知ったのは戦争も終わりの一九四四年の暮れのことだった)。何しろそれまでは三百キロも出れば「速い」と言われていたのに、五百五十キロという驚異的な速度を記録した上に小回りが利くものですから向かうところ敵無しでした。

 このゼロ戦の風防ガラスとしてセルロイドが使われていました。ガラスとガラスとの間に張り合わせて割れないように、飛び散らないようにとの役目を果たしていたのです。ゼロ戦にとって風防が丈夫であるかどうかはゼロ戦がゼロ戦であるための条件でした。と言うのはゼロ戦の風防は、それまでの飛行機のものよりずっと大きかった上に速度が速かったものですからかかる圧力は大変なものがありました。また開閉型ではなくて水滴状の密閉型でしたので、高空を飛行中に割れたりひびが入ったりしたら場合によったら飛行機が墜落しかねない一大事です。またこれはゼロ戦の話ではありませんが、高速での試験飛行中に風防が変形して飛行士を圧迫してあわや命を失いかけるという事故がありました。そのために耐衝撃性の強いセルロイドが緩衝材として使われていたのです。

 また飛行士がかけていた航空眼鏡にもセルロイドが使われていました。その当時の飛行機は気密室になっていなかったものですから上空で眼鏡が割れたりしたら命に関わりました。これはオープンカーの後ろに乗って時速百キロで走ってみれば分かります。風圧のためにとても目を開けていられないのです。これが五百五十キロで何千メートルもの上空では、どのようなことになるかお分かりいただけると思います。セルロイドはゼロ戦に乗るものにとってまさに命の綱だったのです。

 他にも目盛り板などの計器類にもセルロイドが使われていました。これも割れにくいひびが入りにくいというセルロイドの特性が生かされた使われ方をしていました。上空で正確な数値が分からなくなったら、たとえ時計のような簡単なものであっても命取りとなります。計器類が表示する数値も命の綱だったわけです。

 こうして世界中に衝撃を与えたゼロ戦もグラマンやムスタングなどが登場すると立場は逆転してしまいました。ゼロ戦は研究されていました。速度も百キロ以上の違いがあった上にエンジンの出力が七百馬力に対して二千馬力であっては比べ物になりません。そして大きな風防も弱点となりました。ここを攻めれば一撃で撃墜することが出来ました。またセルロイドを多用していたために燃えやすいという欠点がありました。そしてゼロ戦は防御能力を欠いていたために攻められたら弱かったのです。一方、アメリカの飛行機は幾ら被弾しても落ちませんでした。防御性能を高めていたうえにアメリカでは既に難燃性、不燃性の樹脂が開発されていたのです。

 こうしてかつては無敵を誇り一万機以上も生産されたゼロ戦も今では完全な状態にあるものは僅かに十七機が残されているだけです。しかもその中で可動状態にあるものは二機だけというのが現状です。

 しかしゼロ戦は日本が世界に誇る名機でした。その技術が今でも新幹線や乗用車、人工衛星、スペースシャトルなどに生きています。飛行機の歴史を語る上で決して忘れてはならない存在であり、これからも記憶にも記録にも残ることでしょう。
このゼロ戦を設計した技師達も使っていたのが雲形定規などの定規類や計算尺でした。これらもセルロイドで作られていたのですが、定規等につきましてはまた日を改めまして語ることといたします。

陸軍将校のかばん
 昔の陸軍将校のかばんにはセルロイドが入っていました。どの部分かといいますと背に当たる部分に分厚いセルロイドの板が入っていたのです。そして普段は下敷きとして使いますが、いざというときには火をつけて機密書類などを燃やしてしまうのです。そのためにかばんも書類も燃えやすいように作っていました。また灰が残らないようにしている上に元の文書が分からないように型押しをした紙を使っていました。

 これが海軍将校のかばんですと鉛の板を入れていましたので沈没の時には一緒に沈みました。そして紙もインクも水に溶けるようにしていました。型押しをした紙を使っていたのは陸軍と同じことです。

 このように陸海軍ともに工夫をこらしたかばんを使用していたのです。特に陸軍のかばんがセルロイドの特性を生かしたものであったのは興味深いものがあります。

焼き物の地雷
日本が戦争末期に手りゅう弾などを焼き物で作っていたことは有名です。高温で長時間焼き締めた陶磁器に火薬を詰め込んだ手りゅう弾は、金属製のものと遜色がないほどのものだったようです。

 これとは別に地雷が焼き物で作られていたことはあまり知られていません。そしてその信管部分がセルロイド製であったことはもっと知られていません。

 この焼き物で作られた地雷は金属が不足したための苦肉の策と思われるでしょうが、実際は日本が誇ってもいい秘密兵器だったのです。その頃アメリカで金属探知機が開発されました。もちろん軍事機密でしたが日本はこの状報を入手しました。そのために金属を使わない、つまり発見されない地雷を作ることになりました。そのために本体は陶磁器、信管はセルロイドという新兵器ならぬ珍兵器が考え出されたのです。

 このようにして作られた珍兵器も手りゅう弾と同じように本物並みの威力がありました。

 それではなぜ量産しなかったのでしょうか。もちろん戦争が終わったからですが、例え続いていたとしても量産することは無かったでしょう。何故なら金属性並みの威力を発揮するためには高温で長時間に渡って、厚く堅く焼き締める必要があったために大量の燃料を必要としました。また専門の陶工が必要でした。その頃の日本には両方とも無かったのです。

 戦争というものは、どことなく間が抜けたところがあるものですが、当事者は必死なのですから何とも始末が悪いところがあります。この地雷などもその一つといえましょう。

 このようにセルロイドも新兵器、珍兵器として戦争に使われたという歴史がありますが、優しくて温かみのあるセルロイドは戦争には不向きな材料のようです。いずれにしろセルロイドが兵器として使われるようなことは二度とないようにしないといけません。

著者の松尾 和彦氏は歴史作家で近世、現代史を専門とし岡山市に在住する。

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