セルロイドサロン | ||||||||||||||||||||||||||||
第48回 | ||||||||||||||||||||||||||||
浅見 潤 | ||||||||||||||||||||||||||||
クスリの容器とセルロイド(その2) | ||||||||||||||||||||||||||||
第二話 医薬品の容器としてのセルロイド |
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1 “三光丹”とセルロイド 岩井館長をはじめとする「セルロイド産業文化研究会」の皆様にクスリ資料館を見学していただいた際、薬の容器にセルロイドを使用している例がないかということが話題となりました。展示資料や収蔵庫の保管資料などあれこれと探した結果、「三光丹(さんこうたん)」という薬の容器がセルロイドで作られていたことが判明しました(図版1)。 |
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*丹薬 皆さんは“丹薬(たんやく)”という言葉を耳にされたことがあるでしょうか。丹薬とはいわゆる“ねり薬”のことで、古くは仙人や道士(主に道教の祭儀を執り行う者)、方士といった、神仙術をあやつる人々が作る“不老不死の霊薬”を意味しました。 また、“丹(たん)”は硫化水銀(HgS)を含む赤土(辰砂ともいう)のことで、同じ字を書いて丹(に)とも読みます。日本各地にある丹生川(にゅうがわ)、丹生谷、丹生山、丹生岳(嶽)という地名の多くは、「丹(に)が生ずる所」すなわち水銀鉱と関係があるといわれます。丹生はまた、“入(にゅう)”や“仁宇(にう)”“仁保(にほ)”“仁尾”“仁井”の字に転ずることがあるので、入谷(にゅうだに)、仁保川(にほがわ)なども同様です。 ちなみに、私の住む奈良県の中〜南部にも“丹生”の付く地名が非常に多く見受けられます。推古天皇の薬猟(くすりがり)で知られる宇陀郡菟田野町(うだぐんうたのちょう)や、桜の名所として名高い吉野にもこの地名が多く、かつては水銀鉱山も数多く分布していました。 ところで、クスリ資料館所蔵の『方名処方』によれば、三光丹は健胃、整腸効果のある「口中清涼剤」だったことがわかります。なお、この薬は、昭和22〜23年頃まで製造していました。 |
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*“丹”の字がつく薬 明治38年(1905)、森下南陽堂が「仁丹」を発売、またたく間に大ヒット商品となりました。森下南陽堂とは現在の「株式会社森下仁丹」のことです。やがてこれに右へならえして、多くのメーカーが「○○丹」と銘打った商品を売り出しはじめました。これがいわゆる「(注1)ゾロゾロ品」と呼ばれるものです。 仁丹の処方は「甘草(カンゾウ)、阿仙薬(アセンヤク)、桂皮(ケイヒ)、茴香(ウイキョウ)、生姜(ショウキョウ)、丁子(丁字=チョウジ)、縮砂(シュクシャ)、益智(ヤクチ)、木香(モッコウ)、薄荷脳(ハッカノウ=L-メントール)、甘茶、各種芳香性精油」となっており、前出の三光丹とよく似ています。 また、初期の仁丹は「赤大粒仁丹」と呼ばれ、表面をベンガラ(酸化第二鉄を主成分とする赤色顔料)でコーティングしていましたが、昭和4年からは、銀箔コーティングを施した“銀粒仁丹”の製造販売を開始しました。奇しくも、三光丹の免許取得も同じ年になされています。他のメーカー同様、三光丸本店でも、仁丹の人気に触発されて三光丹を売り出したのでしょうか? もっとも、三光丸当主の米田家では、すでに江戸時代から延齢丹、萬(万)金丹、(*2)温風清心丹などを製造していたことが、資料館所蔵の古文書『諸集録』(江戸時代、代々の米田家当主によって書き継がれた薬の秘伝書)に見えています。
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2 セルロイドに関する新聞記事 第二次世界大戦時、日本政府は戦争経済を維持するため、国家総動員法のもと、さまざまな分野で企業整備を行いました。 売薬業界も例外ではなく、奈良県では昭和18年(1943)に、法人営業15社、個人営業838人の売薬営業者(製造者)が10社に統合されました。このとき、三光丸本店も他の業者とともに「大和共同製薬株式会社」に組み込まれ、一時的に社名が変更されたのでした。 実は、先にご紹介した『方名処方』はそのときに作られた資料で、当時奈良県で製造販売されていたさまざまな配置薬の処方や用法、効能にとどまらず、販売価格や年間製造量、さらには容器の材質まで詳細に記されています。 残念ながら、この資料を見るかぎりでは、三光丹の他にセルロイド容器を用いた薬はなかったようです。また、資料館で保管している帳簿類にも、三光丹に使われたセルロイド容器の仕入先を示す記録は残されておりません(大日本セルロイドの堺事業所か)。 容器の透明性や重量、製造コストなどを考えると、薬の容器として充分使える材料であり、セルロイドを容器として用いたメーカーは少なくないでしょう。今後、判明したことがあれば、稿をあらためてご報告したいと思います。 ところで、本題とはかけ離れてしまいますが、神戸大学附属図書館の「新聞記事文庫」(インターネットweb上で公開中。URL:http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/)でちょっと面白い記事を見つけたので、ご紹介します。 |
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【記事1】 『中外商業新報』明治45年(1912)の記事(図版2) 記事内容:光明に向へるセルロイド 「・・・(中略)▲セルロイドの需要 最近数年間外国よりの輸入は年額五十万封度乃至八九十万封度に達したれど昨年来日本セルロイド会社の製品市場に現れてより最早全然輸入品を駆逐し去るも遠からざる可しと察せらる而して一方海外輸出は単に日本セルロイドの製品のみにても鮮少ならざる金額に上り輸出先は清国、印度各地にして近頃は米国輸出の端□も開けたるが最も多量なるは矢張り清国にして革命事変以来各種の調度品にセルロイド製品を歓迎し帽子裏地、櫛、ブラシ、カラー其他男女の調度用品にセルロイドの加工品は莫大の注文あり会社は目下之に全力を傾注し居れるが六国借款成立支那経済界の発展と共に恐らく其販路は無限に拡大せらる可し内地方面は応用範囲頗る拡大せられ鼈甲、象牙、珊瑚、黒紫檀等の各種模造品となり需要の増加は際限なければセルロイド全盛時代を見るも遠からざらんか・・・(後略)」 |
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これは明治45年の記事ですから、日本にセルロイドが輸入されてからおよそ35年にして国産のセルロイド製品が流通し始め、しかも同時に海外へ輸出されていた様子がうかがえます。なお、文中の「封度」は重量単位の「ポンド」(現在、1ポンドは454g)です。 ところで、セルロイド製品の中で、「帽子裏地」と見えますが、これは何をさしているのでしょうか。おでこに当る部分?それとも“つば”の裏地でしょうか?筆者は浅学にして理解しかねますが、関係者の方々にとっては、周知のことかと思います。 それにしても、当時一番の輸出先が清国であったとは驚きです。 |
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【記事2】 『大阪朝日新聞』大正4年(1915)の記事 (図版3) 記事内容:「不燃性セルロイド東北大学の発明 東北大学の附属化学研究所主任佐籐熊治氏は今回大豆の蛋白質にホルマリンを配合して不燃性セルロイドを製造する方法を発明し過般特許局の特許を得たるにより目下諸外国の特許申請中なりと同氏は福岡大学にありしが同品発明の為東北大学に転じたるものにて実験室に於ては既に完全に成功し居れど大仕掛の工業と為すべく更に研究を続け居れる由、尤も不燃性セルロイド即ちセルロンは数年前既に独逸に於て発明せられ戦争前本邦にも輸入されたるが価格は普通セルロイドに比し約三割方高価なるを以て今尚一般に使用せられずされど佐籐氏の発明は相当安価に供給し得らるべき見込なる由なれば同大学にては同氏の研究に頗る望みを属し居れる由」 |
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不燃性セルロイド“セルロン”とはいったい何でしょう?難燃性に優れた“酢酸セルローズ”が出てくるのはずっと後(昭和23年頃;大日本セルロイドによる)ですし・・・。 いろいろ調べたのですがわかりません。ただ、当時ドイツとフランスの共同で牛乳に含まれるカゼインを原料としたプラスティックを工業化し、“ガラリット”という商標名で売り出したという記事を見つけました。これは現在でいえば“ラクトロイド”のことと思いますが、上記の記事を読んだかぎりではモノが違うようです。 この段階では実用化されなかったのでしょうか・・・。 |
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【記事3】 『大阪朝日新聞』夕刊 昭和13年(1938)の記事(図版4) 記事内容:「心配するな!我れにセルロイド 足袋のコハゼ、蚊帳の吊手も金属の代役相勤め候 長期戦に備えて銅、鉄や合金の使用禁止制限で世はまさに代用品時代に入ったが”セルロイド日本”と世界に誇る大阪のセルロイド業者が蹴起して「大阪セルロイド研究普及会」(仮称)を結成、セルロイドの代用性を科学的に調査研究して戦時下の国策に応じようと意気込んでいる セルロイド業界は大規模な生地生産業者と、家内工業的な加工業者および生地組合などがそれそれ孤立、対抗していたが時局の波にもまれて最近大日本セルロイド株式会社をはじめ、大阪セルロイド生地工業組合(六会社加盟)各種セルロイド加工業四組合、再生生地工業組合、大阪セルロイド同業組合、生地卸商業組合など生産、加工、販売を結ぶ業者がガッチリと手を組み、三日から引きつづき各代表者が大阪東成区大今里町の櫛会館で協議の結果、大同団結して研究普及会をつくることになったもので来る七日を期して調査、研究、普及、相談の各係を整備し実験室と工場とを結びつけた有力な実行機関として活動を開始することになった 業界では従来錫製だった歯磨チューブに代るセルロイド製チューブの製造に着手しており、また足袋のこはぜ、蚊帳の吊手、襖や扉の取手などもすでに研究製造中で、将来更に台所用品、建築材料など各方面へ次から次へと新工夫をこらし、さらに相談係は社会一般に呼びかけて考案の発案を募り、これを直に同会加盟の各工場で製造加工して大衆に普及させるべく努力するはずで安いセルロイド製品が金属にかわって商品界に君臨する日も近かろうとハリ切っている」 |
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昭和13年といえば国家総動員法が公布された年です。前年(昭和12年)に日中戦争が勃発し、日本国内はまさに戦争一色だったと想像できます。そのせいか、記事の表現もずいぶんと勇ましいものになっています。 |
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またまた脱線しますが、図版5は、当時の三光丸の新聞広告です。「胃腸の整備」など、軍隊式とでもいうべき表現が使われており、時局資料の生々しさを感じていただけるかと思います。 (この稿終わり) |
※ 執筆後記 薬のセルロイド容器に関するデータが少なくて困っていた折、インターネット上でとても興味深い記事に出会いました。 あまり深く考えずに原稿の後半を使ってご紹介しましたが、もしかすると、いや、もしかしなくても、セルロイド産業文化研究会の皆様にとっては既に周知の事実であり、まったくもって蛇足となってしまったかもしれません。 ですから、ここで筆者は「執筆後記」と題し、若き日の思い出話などしてお茶を濁そうと思います。御用とお急ぎでない方はどうぞお読みください。 私の幼なじみで、今はキャノンという会社でインダストリアルデザイナーをしている大谷聖(おおたにきよし)という人物がいます。彼がその昔、“桑沢デザイン研究所”という、当時斯界の最先端といわれた美術専門学校で学んでいた頃のことです。彼は中学生の頃から私の文才を認めてくれていた、数少ない、かけがえのない友であります。その彼がある日、私に小論文を依頼してきたのです。 「何でも良いから、玩具(おもちゃ)に関する随筆を書いて呉れないか。好きなように書いていいから。実は、課題(期日までに提出するデザインなど。いわば宿題)の中に「オモチャに関する随筆」というのがあって困っているんだよ。オレは今、他の課題で手が離せないし・・・」 当時、桑沢研究所の課題の多さはあまりにも有名でした。万事抜かりなくこなす彼にして、積もり積もった「課題地獄」に苦しんだ挙句、課題はそっちのけで壮絶な“課題地獄の詩”を書いてよこしたぐらいなのです。 私は酔った勢い(なぜかお酒を飲む時間はあったようです・・・)もあり、男気を出してすぐさま引き受けてしまいました。やがて、散々苦労してできあがった小文は、大略以下のようなものだったと記憶しています。 「私たちの脳の奥深いところには、もっとも大切な記憶をしまっておく小部屋が存在する。そこでは、無数の引き出しのひとつひとつに、かけがえのない思い出たちがひっそりと息づいており、それらは、ふとしたことがきっかけで鮮やかによみがえってくることがある。それも唐突に・・・」このような出だしだったでしょうか?私がその小文で書きたかったことは、おもちゃの匂いや味のことでした。そう、子供というのは、おもちゃを舐めたり、ときには齧(かじ)ったりするものです。もちろん、ニオイは頻繁に嗅ぎます。 たとえば積み木。積み木の塗料の味や匂いは、これはもう、かなりはっきりと記憶しています。ブリキは舐めても不味いし、臭いもなんだかツンとして冷たく野暮(やぼ)ったい感じがしたものです。絵本(それも真新しいもの)の匂いと味はかなり好きでしたが、やはりセルロイドの敵ではありませんでした。セルロイドときたらもう、別格であり、手ぬぐいなどで強く擦った後で嗅いだ、あの独特な匂いは忘れられません。なめらかな手触り、不思議な色合いと、三拍子揃った理想的な材質と断言してもいいでしょう。 ・・・畏友(いゆう)大谷は、この、かなりマニアックな文章に対し、原稿用紙1枚あたり300円という破格の原稿料を支払ってくれました。その様子からすると、どうもほとんど手を加えずに提出したようなのです。今の大谷があるのは、そのときの私が書いた小文のお蔭といえばウソになるでしょうが・・・。思えば、これが私が原稿料を貰った初めての経験ではありました。 セルロイドサロンに第一回目の原稿を掲載していただいてから、早いもので半年が過ぎてしまいました。 私も、普段は来館者の案内をしたり、古いクスリのパッケージや古文書を分類したり、庭の雑草を抜いたりする毎日ですが、“セルロイド”との関わりができてからというもの、時折、思い出したように収蔵庫の奥に入り込んでは、おびただしい資料の山をかき分け、何かセルロイドに関係するモノはないか・・・と探すようになりました。 私の拙(つたな)い文章が、ほんのわずかでも皆様のお役に立てば、これに過ぎる喜びはありません。また、説明不足の点、カン違いなど、ご指摘いただければ幸甚です。 |
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